2005年度4期ゼミ最後のテキスト。報告予定者M君から「子どもと大人の境界線はどこにあるのかをテーマに報告したい」との相談があったので、いくつかの新書を僕から紹介したところ、彼は本書を選んだ。報告それ自体はお世辞にもほめられたものではなかったが、最大の原因はテキストの読み込み不足。本書は、テーマこそタイトル通りの親しみやすいものだが、その主張の核心を抽出するのは意外に骨が折れる。子どもと大人の境界線が取り払われてしまったこと――「子どもが大人になる節目の一般的な消失」(p.14)――は指摘されているが、「大人になるとは・・・である」ときっぱり一言で説明されていないのだ。本書は小浜さんの一連の著作の中で文章がやや散漫で切れ味の鈍い部類に入るだろう。しかし、彼は他の多くの著作の中で繰り返し同じ論点に触れているので、彼の著作を他に一冊でも読んだことがある者なら、それを想起することによって、本書を容易に解読することができるはずだ。
かつて2期ゼミで同じ著者の『人はなぜ働かなくてはならないのか』をテキストに用いたことがある。そこで著者は次にように述べていた。
人間は、関係的存在として、エロス的であると同時に社会的なのである。(『人はなぜ』p.27)
この本で私は、「人間は関係的、共同的な存在であることをその本質としている」という思想的立場に一貫して立っている。・・・私が常々提起してきたのは、この「関係的、共同的な存在」というあり方のなかに、「エロス的な関係」と「社会的な関係」という二項の区別を持ち込んで人間を把握する方法であった。(『人はなぜ』p.282)
このような人間把握の二面性は、著者の全著作を貫通するライト・モチーフであるように思われる。したがって、大人になること――発達・変容・変成――について説明する場合、「それまで自然だと思い込んできたことが、実は、少しも自然ではなかったのかも知れないと気づかされ」(p.75)ること、あるいは、「これまでの自分の世界観や生存感覚では処理しきれないある困難な契機にぶつかり、そこでなにものかに「気づく」ことによって、自らある〈変成〉を成し遂げるということ」(p.138)といった説明だけでは、人間把握の二面性との関連が欠落しているので、不十分であるだろう。著者は、発達・変容・変成という語に、エロス的な意味での(≒親密圏における)それと社会的な意味での(≒公共圏における)それの両方を含意させており、とりわけ前者の重要性を強調している。
しだいに個人としての自覚を深めて行くとか、社会人としての責任や義務がわかるようになってしっかりしてくるとかいったことだけが青年期へ向かう発達のすべてではないのである。・・・この見方は、人が大人になることにおいて、親と関係する者としてのあり方をいかに変えていくかが相当に重要な意味を持っている事実を押し隠す原因となっている。要するに社会人としての完成、市民社会の一員としての個人というところに目が行きすぎているのだ。・・・人間にはもう一つの発達、エロス的な発達(変容)というものもある。(p.77)
本書が紹介している『となりのトトロ』における「めい」の「気づき」――母親との関係のとぎれとしての死の観念を意識し始めること――や『紅い花』における「マサジ」の「気づき」――性愛的存在としてのサヨコを意識し始めること――は、エロス的な発達(変容)の具体例である。著者が、発達・変容・変成という語に、高次の段階へと「発展」していくプラス・イメージばかりでなく、それまで続いていた(親や友だちとの)自明の関係を「喪失」するマイナス・イメージを含意させていることは重要である。大人になることを「社会人としての責任や義務」の内面化のプロセスとしてのみとらえると、思春期特有の「かげり」「暗さ」の原因を誤って社会的人格の内面化の困難と結びつけてしまう恐れがある。
それでは、つまるところ「大人になる」とはどういうことだと著者は考えているのか?「自分のはたらきが人々の間に何らかの好ましい結果を生んでいるという確信が得られること」および「身近な相手とうまくやっていけそうに思えること」という「二つの基本条件」をうまくクリアしていくことである(pp.232-3)。「二つの基本条件」がそれぞれ「社会的存在としての人間」と「エロス的存在としての人間」に対応していることは言うまでもない。「親密圏の変容」(土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』)に起因する種々の問題を「二つの基本条件」との関連で考察してみるのも面白いだろう。*1
- 作者: 小浜逸郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1997/07
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