乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

ニーチェ『道徳の系譜』

2005年度後期「キノハチ研究会(哲学古典読書会)」においてゼミ生4名と輪読、本日読了。

19世紀後半に活躍したドイツの哲学者ニーチェの『ツァラトゥストラ』と並ぶ代表作。序言と3論文――第1論文「「善と悪」・「よいとわるい」」、第2論文「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」、第3論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」――から成る。

本書の執筆意図をニーチェは序言で次のように述べている。

われわれはわれわれに知られていない。われわれ認識者が、すなわち、われわれ自身がわれわれ自身に知られていない。(p.7)

我々は、道徳的な価値判断を下す際に、既存の価値体系に照らしてそれを行なっているわけだが、その価値体系が歴史的に形成された先入見(偏見)であることに無自覚であるため、自分たちがどのような仕方で思考しているのかについても無自覚になっている。

われわれの道徳上の先入見の由来(それがこの論駁書では問題なのだ・・・)(p.8)

われわれは道徳的諸価値の批判を必要とする、これらの諸価値の価値こそそれ自身まずもって問題とさるべきである、と――そしてそのためには、これらの諸価値を発生させ、発展させ、推移させてきた諸種の条件と事情についての知識が必要になる・・・。そのような知識はこれまで持ち合わされてもいなかったし、また必要を感じられてさえもいなかった。これらの「諸価値」の価値は、所与として、事実として、すべての疑問を越えたものとして受け取られてきた。これまでは「善人」を「悪人」よりも価値の高いものと見な・・・すことには、いささかの狐疑や逡巡の余地もなかった。しかるにどうであろうか、もしその逆が真であるとしたら?(p.15)

実は我々の思考は偏見の虜なのだが、誰もそれに気づいていないし、気づこうともしない。人間本来の自由な思考を回復するためには、既存の道徳的諸価値の自明性を徹底的に疑ってみる必要がある、とニーチェは言う。

本書が明らかにしようとする真理は、多くの読者を不快にさせるような真理である。しかし、真の哲学者であれば、そのことを恐れてはならない。

露骨な、不快な、醜悪な、不都合な、非キリスト教的な、不道徳的な真理・・・そういう真理も存在する・・・(p.21)

心の底にあって命令し、ますます明確に物を言い、ますます明確なものを求める・・・このことのみが哲学者にふさわしい・・・(p.9)

第1論文は、道徳的諸価値の歴史を、貴族的(=ローマ的)価値判断の没落、僧侶的(=ユダヤ的)価値判断の台頭という筋書きで描き出している。

あのユダヤ人たち、あの僧侶的民族は、結局、ただ価値の根本的な転倒によってのみ、従って最も精神的な復讐の一幕によってのみ、自分たちの仇敵や圧制者に対して腹癒せをするすべを知っていた。・・・あのユダヤ人こそは、恐るべき整合性をもって貴族的価値方程式(よい=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)に対する逆倒を敢行し、最も深刻な憎悪の(無力の憎悪の)歯軋りをしながらこの逆倒を固持したのだった。(p.32)

この「転倒」「逆倒」をニーチェは「道徳上の奴隷一揆」(p.36)と呼ぶ。僧侶的評価様式においては、

返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』・・・に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている臆病さそのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでが『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものさえ意味しているようです。(p.50)

「よいとわるい」、「善と悪」という二対の対立した価値は、幾千年の長きにわたる恐るべき戦いを地上において戦ってきた。・・・この戦いの象徴は「ローマ対ユダヤ」、「ユダヤ対ローマ」と呼ばれている。・・・ローマとユダヤ、そのいずれが差し当たり勝利を得たか。・・・ローマは疑いもなく捩じ伏せられた・・・(pp.56-7)

第2論文においても、不快な真理が白日に晒される。

[非力な者が]苦しむのを見ることは快適である。苦しませることは更に一層快適である――これは一つの冷酷な命題だ。しかも一つの古い、力強い、人間的な、余りに人間的な根本命題だ。・・・残忍なくして祝祭なし。人間の最も古く、かつ最も長い歴史はそう教えている――そして、刑罰にもまたあんなに多くの祝祭的なものが含まれているのだ!――(p.75)

侵害も圧制も搾取も破壊も、何ら「不法行為」ではありえない。生は本質的には、すなわちその根本機能においては、侵害的・圧制的・搾取的・破壊的に作用するものであ[る]・・・。(p.87)

しかし、生を敵視するユダヤ的価値判断の台頭によって、「禁欲主義的な手順や生活様式」(p.67)――法律制度――が整えられ、侵害・圧制・搾取・破壊が「不法行為」として禁じられてしまった。それゆえ

外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられる・・・敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。(p.99)

「良心の疚しさ」と「(キリスト教の)聖なる神の観念」は同じ起源を有する。

苛責を受けた人間は・・・キリスト教のあの天才的なちょっかいによって、かりそめの安心を見出した。曰く、神は人間の債務のために自らを犠牲にする。・・・神は人間自身には償却しえなくなったものを人間のために償却しうる唯一の存在である(p.109)

第3論文では、僧侶的(=禁欲主義的)な価値体系が、哲学・科学を汚染してきた経緯が説明される。

世界を否定し、生を敵視し、官能を信ぜず、官能を超脱した哲学者たちに特有な脱俗的態度は、最近に至るまで固持されてきており、従ってそれは殆んど哲学者的態度そのものと見なされるほどになっている・・・。禁欲主義的僧職者は最近に至るまで厭わしい陰気臭い青虫の姿を取っており、哲学はそうした姿においてのみ生存を許されて匐い廻っていたのだ・・・(p.145)

科学は禁欲主義的理想と同じ地盤の上に立つものである。すなわち、一種の生の貧困といったものが両者の全体をなしている・・・(p.197)

禁欲主義的理想の蔓延によって、人間の生の豊穣さを肯定する真の哲学者は今や絶滅の危機に瀕している。ニーチェは「今や自分だけが真の哲学者である」との強い自負をもって、大衆が耳をふさいで聞き入れないであろうような真理を敢えて伝道しようとした。哲学者は「不活発な、思案顔な、非戦闘的」な「観想的人間」(pp.143-4)であってはならない。

晩年のニーチェが狂気の闇の底に沈んでしまった事実を、そして、高貴さの探求と反ユダヤ主義プロパガンダとが表裏一体をなしている事実を、21世紀に生きる我々はどのように受け止めればよいのであろうか?ニーチェが我々に突きつけた問題はあまりに重い。

個人的には、第2論文第1節の「能動的な健忘の効用」に関する件が特に印象深かった。

健忘は浅薄者流の信じているように、単なる《惰力》ではない。むしろ一つの能動的な、厳密な意味において積極的な阻止能力であ[る]・・・健忘がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の矜持も、何の現在もありえないだろう・・・。この阻止能力が破損したり停止したりした人間は・・・何事にも「決着をつける」ことができない・・・(pp.62-3)

何て逆説的!しかし、コンプレックスの強さのあまり虚勢を張っている人を目にするような場合、そこに痛々しさを感じてしまうのは、一つには、その人が「積極的な阻止能力」としての「健忘」を欠いているからだろう。真に強く勇敢な人間であれば、未来を自分で作り出す力に溢れているから、過ぎ去ったことなどどうでもいいはずだ。

すらすら読める訳文ではないが、すらすら読むべき本でもない。じっくり腰を据えて読む覚悟が必要だろう。費やした時間のぶんだけ得られるものがきっとある。

道徳の系譜 (岩波文庫)

道徳の系譜 (岩波文庫)

評価:★★★★★