本書はイギリス古典派経済学の方法論的特徴を、6人の古典派経済学者――スミス、リカードウ、マルサス、シーニア、ミル、ケアンズ――の議論を精査することによって、明らかにしようとしている。著者はイギリス古典派経済学の方法論的立場の核心を「経済理論は観察事実によって反証されない」という立場に求めているようだ。全10章は、全体として、こうした立場にいかにして形成されていったのかを概ね時系列的に追跡している。これまで研究蓄積が不十分だったシーニアとケアンズに本格的考察が試みられたことは貴重だが、僕自身にとっては、マルサスの経済学方法論を詳細に検討した第3章が「目からウロコ」であった。僕がかつて発表した論文「バークとマルサス」*1は、本章から得られた知見によって、根本的な改訂を迫られそうだ。僕は「現在でも根強く残る見解」に依拠して自分の議論を展開したものだから。
マルサスの方法を帰納法とし、リカードウと対立するものとみなす見解は、多くの論者によって共有されたものであり、現在でも根強く残る見解であるといってよい。
しかしながら、このような見解に対しては、異論も提出されている。・・・シュンペーターやブラウグによれば、マルサスは、演繹的経済理論を支持するという点で、リカードウと同様の方法を採用していたというのである。
マルサスの方法に関する評価の食い違いを、われわれはどう考えたらよいのだろうか。結論からいえば、シュンペーターやブラウグの解釈の方が適切であり、マルサスとリカードウとを対立させる見解は、帰納法の意味合いがあいまいであったために生じたものであった、ということができる。第1に、確かに帰納法という言葉が演繹法と対立する意味で用いられることがあった。・・・第2に、演繹法を補完するものとして帰納法が用いられる場合もあった。つまり、演繹の前提を形成するときと、演繹の結論を確証するときに、用いられる帰納法がそれである。この意味での帰納法は、演繹法となんら対立するものではない。マルサスは、確かに帰納法を用いていたが、それは演繹法と対立するものではなく、演繹法を補完するものとして帰納法を用いていたのである。しかも、演繹の前提を形成するためではなく、演繹の結論を確証し、これを正当化するために用いていた。リカードウとマルサスとの相違は、演繹法と帰納法の相違ではなく、演繹の結論を確証するために収集された経験的データの分量にあったのである。(pp.64-5)
著者は「古典派方法論の課題は、抽象的な経済理論と複雑な現実社会との間に横たわる溝に橋を架けることではなく、純粋経済学という陣地を守ることだったのである」(p.v)と断ずるが、この事実に対する価値判断は留保されている。こうした禁欲的な筆致は意図的に採用されたものだろうが、だからこそ余計に著者には「なぜ古典派の方法論を問題にするのか? 古典派経済学の方法論的立場は基本的に現代経済学にも引き継がれているとと考えているのか? 経済学の現状についてどう考えているのか?」と問いたい。昨年夏から共同研究を進めているので、次の研究会の時にでも本人に直接尋ねてみようと思う。
重厚な研究書なので学部生には薦められないが、イギリス古典派経済学研究を志す者にとっては必読の一冊だ。僕自身、非常に多くのことを学ばせてもらった。著者に感謝の意を表したい。
- 作者: 佐々木憲介
- 出版社/メーカー: 北海道大学出版会
- 発売日: 2001/02/25
- メディア: 単行本
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評価:★★★★☆
*1:中矢俊博・柳田芳伸編『マルサス派の経済学者たち』所収