本文100ページ程度の小著。しかもタイトルはそのものズバリ『プラトン』。しかし、簡便な入門書・解説書を期待して読み始めると、見事に裏切られる。著者自らが「あとがき」で記しているように、「異端の本」(p.118)である。
ここでは。プラトン哲学の解説書できまって説明される「初期/中期/後期」の区分や、「歴史的ソクラテス/プラトン的ソクラテス」の区別が、まったく論じられない。さまざまな典拠を自由につかい、「イデア論」や「ディアレクティケー」への体系的な説明もなされず、「想起説」や「魂の三分説」にいたっては触れられてさえいない。(p.118)
では、本書は何を語ろうとしているのか?
ソクラテスの生と死は、同時代のアテナイの人々以上に弟子プラトンにとって、大いなる衝撃であり、「謎」であった。ソクラテスは自他共に知者と認める人々を相手に対話し論駁して、彼らが本当は知者でないことを明らかにしていった。そうでありながら、ソクラテスにとって対話は自らの不知を確かめる不断の試みでもあった。不知こそが善き生(真の生)の基盤であった。そんな彼は、人々と対話しながら生を吟味する(フィロソフィエン=哲学する)営みを放棄して生き長らえるよりも、むしろ敢然たる自死を選んだ。このような空前絶後の生を生きた最愛の師はいったい何者なのか? プラトンはそれに「哲学者」という名を与えるより他なかった。
プラトンが書き残した三十余りの「対話篇」…は、ソクラテスという「謎」と出会ったプラトンが、その謎を解き明かすべく問いつづけた生の軌跡である。そこでプラトンにせまったのは、「哲学者の生を生きるとは、どういうことか?」の問いであった。この問いに私たち自身が直面し、プラトンのソクラテス、この二人のあいだで生じた「哲学の始まり」が何であったのかを考えることが、本書の目標となる。(p.13)
対話篇という形式の採用も、対話篇におけるプラトンの不在も、哲学者ソクラテスの純粋で強烈な生の軌跡を読者の眼前に浮かび上がらせるための方途であった、と著者は解釈する。思い込み(ドクサ)に陥りがちな生を対話を通じて徹底的な吟味にかけることから哲学は始まった。
自らの不知は、けっして自分一人では分からない。というのは、自己の完結した世界にひきこもることこそが、思いこみ(ドクサ)という最大の無知をひきおこすからである。異質な他人と出会い、外からの問いかけによりこの思いこみを打破する「対話」こそが、哲学者の生を成立させる。(p.40)
「対話する」(=「哲学者の生を生きる」)ことは政治的な営みでもある。
「善き生」をめぐって人々と対話をかわし、吟味によって不知を明らかにする営みこそが、ポリス・アテナイに対する真に公的な、政治の活動であった。(pp.91-2)
裁判でアテナイ民衆によって殺されるソクラテスは…正しく善き生き方を実現しようとした哲人政治家の姿に他ならない。プラトンはこうしてソクラテスに政治と哲学の一致を見たのである。(p.94)
大胆で面白い解釈だと思うが、専門家ではない僕はその解釈の妥当性を判断できる立場ではない。ともあれ、本書の隠された主題は、ソクラテスとプラトンに仮託しながら現代における真の哲学者像を提出することにある、と言えそうだ。このような本書に対して、Amazon.co.jpの読者レビューを見ると、賛否両論が乱れ飛んでいる。*1大胆すぎる解釈なのだろう。たしかにソクラテスとプラトンは過度に美化されている嫌いがある。完全無欠すぎて人間臭さに乏しい。この点はストラザーンのプラトン像との大きな違いだ。
前404〜403年の革命(三十人政権の成立と崩壊)がプラトンの思想形成に及ぼした巨大なインパクトに関する分析は非常に啓発的だった。革命の唱導者である親族クリティアスの思想を吟味した『カルミデス』は近い将来ぜひとも読んでみたい。そこで明らかにされる「思慮深さ(ソーフロシュネー)」のイデア的な姿――「一種の調和であり、支配者と被支配者とのあいだで誰が支配すべきかについてなされる同意や合意」(p.76)――は、バークの「慎慮(プルーデンス)」概念を連想させる。両者の関係は考究しがいのある奥深いテーマのような予感がする。
記述は明快。一読の価値は十分にある。
- 作者: 納富信留
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2002/11/22
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評価:★★★☆☆
*1:同じ著者の他の著作に対しても。