乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

プラトン『饗宴』

2006年度前期「キノハチ研究会(哲学古典読書会)」のテキスト。研究会では、久保勉訳(岩波文庫)を用いたが、訳文に古さを感じさせる箇所も少なくなく、森新一訳(新潮文庫)も適宜参照した。森訳のほうが訳文は現代的だが、注・解説は久保訳のほうがはるかに充実しており、どちらも一長一短である。総合点では鈴木照雄訳(全集版)がいちばん良い気がするが、ゼミ生との読書会で使用するには価格等の面で難がある。

説明するまでもないだろうが、プラトン古代ギリシャの哲学者。ソクラテスの弟子であり、アリストテレスの師。英国の哲学者ホワイトヘッドが「ヨーロッパの哲学的伝統を一番無難に総体的に特徴づければそれはプラトンにつけられた一連の注釈であるということだ」*1と述べたほど、その影響力は絶大である。『饗宴』はプラトン中期の作品で、彼の哲学の中心学説であるイデア論が展開されている。その意味でも、またその文学的格調の高さからも、彼の代表作の一つとして今日でも広く読み継がれている。副題「エロス(恋/愛)について」。

プラトンの著作はいずれも師のソクラテスを主人公とする対話篇の形式をとっており、本書もまさしくそうである。悲劇詩人アガトン宅で催された宴会に集まったソクラテスたちが、医者のエリュクシマコスの発案で、エロス神を讃える演説大会を行なうことになる。演説者は順番にパイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストファネス、アガトン、ソクラテス。とりわけアリストパネス演説は「男女一体論」(アンドロギュヌス説)として有名で、映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]*2の元ネタにもなっている。ソクラテスは自説としてではなく、婦人ディオティマに聞いた説として、エロスについての真実を語る。ソクラテスにとっては、真実を語ることが讃美の前提条件である。対象を美辞麗句で飾りたてて実体よりも素晴らしく見せることが賞讃ではない。ソクラテス演説の中味については、福田和也氏の秀逸な整理を紹介しておこう。

…愛は喪失したものを埋めて完全な自分になろうとする欲望だというアリストパネスの論に対して、ソクラテスはこう議論を展開する。巷間、金や権力を求める人間を見ると、それをふんだんに持っている人間ほど、より多くの金や権力を求める傾向がある。この欲望は、欠落しているもの、失ったものを求めるのとは違う。むしろ、こう考えられるのではないか。そこに働いているのは金や権力を永遠に持ち続けようとする欲望で、それは欠落したものを求める欲求より強いのではないか、と。
ソクラテスはエロスの本質は、永遠への希求にあると考えるわけ。
…エロスの力で、一人の少年を手に入れ、その肉体の美を堪能した後、さらに多くの少年の美しさを求めて、遍歴をしなければならない、と。
…で、そうやって多くの肉体の美を味わっていると、だんだん肉体の奥にある、男たちの魂の美しさがわかってくる、と。その魂をさらに遍歴していくと、個々の少年の肉体や精神を超えつつ、一貫する、美そのものを求めるようになる、とソクラテスは考えたわけ。そこまで行くと、美そのものという理念、永遠に変わらない、絶対的で純粋な美というものにたどりつこうとする、ここにこそ、エロスの本質があると。つまり、この美の絶対的な結晶のようなもの、それがイデアだね。イデアこそが、絶対的かつ永遠不変のものなわけ。個々人の肉体とか魂とか移ろいゆくものと違う、完全なものがイデア。このイデアを求めるのがエロスだという。(『バカでもわかる思想入門』pp.60-2)

ソクラテス演説の終了後、アルキビアデスが饗宴に乱入し、自分とソクラテスとの恋愛関係の「真実」を暴露し、ドタバタ・ムードでこの対話篇は終わる。どの演説者も同性(青年)愛を擁護しており、その点で拒絶反応を示す読者がいるかもしれない。ただ、そこに描かれているのは、今日「同性愛」という語がもつ背徳的で病的なイメージとはかけ離れた、陽気で健康的なイメージとしての「同性愛」である。古代ギリシャの上流社会では一つの公然たる習慣として認められていたようなのだが、自分が今生きている世界とあまりにもかけ離れているので、古代ギリシャ人の精神を追体験する上での大きな障害になっていた。しかし「同性愛」を「師弟愛」と読み替えることによって、古代ギリシャの上流社会と今の自分が生きている世界とを一気に接近させることができるのではないかと思うに至った。例えば、以下の一節における愛者と少年との関係は、指導教員と院生との理想的な関係として読めはしないだろうか?

実際愛者とその愛する少年とが同一目標に向って進むとき、すなわち両者おのおの自身の格率(ノモス)に従い、前者は己に好意を示す少年に対していかなる奉仕をも(それが正しいかぎり)厭うことなく、後者は自分を賢明かつ優秀な者にしてくれる人に対していかなる奉仕をも(それがただ正義に適ってさえいれば)あえてするとき――しかもまた一方は智見やその他の徳の増進に貢献する能力を持ち、他方はこれに対して教養やその他の智慧を獲得せんとする欲求を抱いているとき――その時にこそ、かくこの両格率が一つに結合したとき、ただその時にのみ愛された少年が愛者に好意を示すことの誉となる場合が実現するのである、他の場合には絶無なのである。(岩波文庫, pp.68-9)

二千数百年前に書かれた作品に対して、その意味を理解できるだけでなく、純粋に面白いと感じることができた。本当にすごいことだ。その事実に何より感動してしまった。

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (新潮文庫)

饗宴 (新潮文庫)

プラトン全集〈5〉 饗宴 パイドロス

プラトン全集〈5〉 饗宴 パイドロス

評価:★★★★★

*1:“the safest general characterization of the European philosophical tradition is that it consists in a series of footnotes to Plato.”--Arthur O. Lovejoy, The Great Chain of Being: A Study of the History of an Idea (The William James Lectures), p.24

*2:http://d.hatena.ne.jp/nakcazawa/20060617