乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』

70ページ程度の小冊子だが、「現代子ども・若者学原論」と呼びうるほどの重厚な内容を誇っている。12月15日、5期(2回生)ゼミのテキストとして用いたが、ゼミ生の評判も良好だった。僕としても、これまで読んだすべてのブックレットの中で最高のもの、と断言できる。

著者は、昨年4月に長崎県佐世保市で発生した小6女児同級生殺傷事件から、筆を興している。この事件は、友人関係に異常なほど細かく気を配りあっている現代の子どもたち(特に女子)の生態を浮き彫りにしている点で、注目に値する。このような陰惨な事件にまで発展することはきわめてまれだとしても、現代の子どもたちが潜在的な対立感情を顕在化させないように高度に(時には過剰なまでに)友だち関係に気を遣いあっていることは確かである。携帯メールで多用される絵文字(フェイスマーク)などは、そのような「優しい関係」を維持するために編み出された高度に洗練された交際術と言うこともできようが、他方、このような対立回避の志向性は、いじめを陰湿化・密室化・潜在化させる傾向を強く有している。最近のいじめは、「アクティング・アウトな動作」としてではなく、本人がいないところでこっそり持ち物を隠すなど、「サイレント・コミュニケーション」(p.21)として行なわれることのほうが多くなっている。

友だち関係が変化している。「優しい関係」が蔓延している。

かつての親友が、自分の率直な想いをストレートにぶつけることができる相手だったのに対して、昨今の親友とは、むしろそれを抑え込まねばならない相手となっています。(p.6)

現代の子どもたちは、親密な関係性に対して、過剰な不安を抱くようになってきている。なぜ彼らはそれほどまでに「浮くのはヤバイ、ハズれるのはヤバイ」と感じるのか?本書はこの問いに明確な解答を与えてくれている。

本書の考察の骨子を著者自身の言葉(引用)によって示そう。

私たち日本人は、第二次大戦後の高度経済成長路線を邁進し、世界にもまれに見る豊かな社会を築き上げてきました。その結果、現在の日本では、物質的な欲望はほぼ飽和状態に達しています。そして、私たちは、、物質的な欲望に代わって、「自分らしさ」の発現へとそのまなざしを変えはじめています。すでに飽和してしまった物質的な欲望が、個性の探求という新たな欲望によって代替されはじめているのです。(p.42)

若者たちが切望する個性とは、社会のなかで創り上げていくものではなく、あらかじめ持って生まれてくるものです。人間関係のなかで切磋琢磨しながら培っていくものではなく、自分の内面へと奥ぶかく分け入っていくことで発見されるものなのです。(p.24)

彼らは、自分自身でさえもいかんともしがたいような、すなわち自分の意思では統御されえないような、自己の深淵からふつふつと沸き上がってくる自然な感情のあり方こそ、自分の本当の「キャラ」だと感じています。彼らの絶対的な価値は、そこに置かれています。だから、その感情をそのまま放出することこそ、本来の「自分らしさ」の最高の発露だということになるのです。
ところが、言葉によって構築された思想や心情が時間をこえて安定的に持続しうるのに対して、自らの整理的な感覚や内発的な衝動に依拠した直感は、「いま」のこの一瞬にしか成立しえない刹那的なものであり、状況次第でいかようにも変化しうるものです。したがって、その直感に依存した自己は、その持続性と統合性を維持することが困難になります。(p.33)

自らの内なる深淵へと分け入って、内閉的に「もともと特別な Only one」の確証を探していこうとするかぎり、そこには絶えざる不安がつきまとうことになります。自分の信じる「自分らしさ」の根拠は、そう信じている自分の主観的思い込み以外にはありえないからです。
・・・このような状況のなかで、子どもたちは、その強迫的な不安を少しでも取り除くために、周囲の身近な人間からの絶えざる承認を必要とすることになります。・・・彼らは強迫的な不安感を打ち消し、刹那の安心を得るために、たとえ表層的であっても、、いや、むしろお互い傷つけあわない程度に、他者とつながっていたいと願うのです。(pp.44-5)

ケータイ依存やランチメイト症候群なども、以上のような背景で強まってきている「つながっていたい」願望との関連で理解されるべきであろう。

僕は歴史家なので、以上のような子ども論・若者論を「現在の日本に見受けられる歴史感覚の欠如」と結びつけた39ページ以下の件が特に印象に残った。時間論のような哲学的議論との接続も可能だろう。また「親密圏の人間関係はなぜ男子より女子のほうに重く感じられるのか?」に関する61ページ以下の考察は本当に鋭い。「ランチメイト症候群はなぜ女子のほうに多く見受けられるのか?」という12月8日の5期ゼミの論題は、こうした考察と関連づけられるべきだったように思う。2期生のH岡さん(2005年3月卒業)が浜崎あゆみの歌詞の分析を手がかりに「居場所論」という卒論を書いたのだが、去年のうちに本書(32ページの浜崎論)を読んでいたなら、もっと良い指導ができたかもしれない。

つい先日(12月18日)、4期生(3回生)が「成長」というテーマで報告を行ったので、それに関係する一節を紹介しておこう。

生徒たちのあいだに社会化による成長という観念が失われてくると、教育の指導的な側面は敬遠され、支援的な側面だけが注目されるようになります。教育がサービスとしての色彩を強め、教師の強制力は色あせていきます。・・・教師の評価は、生徒を演じている役割主体としての自分に向けられたものではなく、全人格的な一人の人間としての自分に向けられたものと感じられる・・・。「生徒としての自分」という意識が希薄になっているので、自分の全体像が評価されているように受け取られるのです。(p.29)

nakazawa0801:X君(さん)、君の今回の報告は全然ダメだよ。そもそもテキストが読めていない。日頃の読書量が根本的に足りないせいだね。
ゼミ生X君(さん):先生、僕(私)のこと、嫌いなんですか!? ゼミ生がかわいくないんですか!? / このテキスト、僕(私)の感性には合いません。 / 先生のサポートが不十分だったと思います。

このタイプのゼミ生に「成長」を期待することは絶望的なまでに困難である。ゼミ生諸君、とにかく本をしっかり読もう。言葉を鍛えよう。著者も言っている。「言葉によって構築された思想や心情」でなければ「時間をこえて安定的に持続」しえないと。

評価:★★★★★