乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

藤田健治『ニーチェ』

初版が公刊されたのは1970年。すでに35年以上もの年月が流れている。しかし本書の価値はまったく減じておらず、むしろ高まりさえしている気がする。ニーチェ思想を孤立的に概説するにとどまらず、それを反ヘーゲル的思想潮流(シェリング→ショーペンハウア→ワーグナア)の中に位置づけており、思想史家の要求にも十分に応えうる。また、ロシア出身の才女ルゥ・ザローメとの恋愛と破局を詳細にとりあげて、ニーチェ思想の実存的背景に迫るなど、評伝としても十分に読みごたえがある。著者の教養の広さ・深さが炸裂する、読み手が眩暈を覚えるほどの、古き善き時代の模範的新書だ。ニーチェを扱った新書は最近でも数多く出版されているが、これほどまでに格調が高いものは稀有だろう。

著者によれば、「永劫回帰の思想」は「彼の哲学の中心思想であり、彼の全哲学を支え、それによってすべてがいきいきとした全体に凝縮し結晶する」(p.164)。難解きわまるニーチェの言葉を読み解いて、著者はそのエッセンスを以下のように手際よくまとめている。

私たちは人生においてうれしく楽しいことは何度でもそういう目にあいたいと思い、これに反して悲しい苦しい厭わしいことはもう二度とそのような目にはあいたくないと思うであろう。しかし、苦しい悲しい厭わしいことがそう思えるのは、ニーチェによれば、それはその事柄に真に生ききっていないからで、事柄の内容がどのようなものであろうと、それを精いっぱい生ききっていれば、苦しい悲しい厭わしいその同じことが何度起こっても少しも悔いることはない。事柄そのことは苦しく悲しく厭わしくても、それを精いっぱいに生きたということが私たちを快く楽しくするのである。その意味で同じことがまた起こり、否繰り返し何度起こっても少しもさしつかえない。否、さしつかえないどころではない、それが私たちを高い意味でよろこばせてくれるかぎり、むしろ何度でも起こることを願わずにいられないだろう。このことを逆に裏がえして私たちの人生における生き方とすれば、そのようにもう一度、否、何度でも繰り返し同じことを生きることを願わずにいられないようにいつでも生きてこそ、悔いのない人生、生きるにあたいする人生となるといえよう。(pp.176-7)

実にわかりやすい。「こんなにわかりやすくていいのだろうか?」と不安になるくらいだ。デビュー作『悲劇の誕生』の解説もとてもわかりやすい。初期思想についてまったくの無知だったので、非常にありがたい。

また、本書に紹介されている論文「生に対する歴史の利害」(『反時代的考察』所収)はとても面白そうな論文で、ぜひ読んでみたいと思った。ニーチェ歴史観が集約されているようだ。

人は歴史学について客観性をいうが、事物が動くままに純粋に受身で描き写しとると思われたとき、実はそこに芸術家の内部にある最も力強い自己行動的な生産的要素が働いているのであって、その結果生ずるものこそ芸術的に真である。歴史の真実を書くということは実は戯曲家の仕事とかわりない。(p.51)

これはかつて戯曲を書いていて現在思想史研究を生業としている僕には、たいへん励みになる言葉だ。正直に告白すると、僕は明確な方法論をほとんど意識せずに研究を進めている。自身の実存を解明するために、内的衝動に促されるままに、論文を書いている。科学的であろう、客観的であろうという意欲は皆無ではないものの、副次的なものにすぎない。この点に関しては、同世代の思想史研究者に対して、多少の劣等感・負い目を覚えないわけではなかったが、ニーチェ歴史観に強い共感を覚える自分自身を否定することはできない。「やはり僕は僕でいいんじゃないか、僕でしかありえない」と改めて実感した次第。

ゼミ生有志と「キノハチ研究会」で『道徳の系譜』を輪読した際、特に印象深かった3つの論点――(1)健忘の積極的意味、(2)キリスト教イエス・キリストの区別、(3)真の哲学者と偽の哲学者との区別――が本書でもとりあげられていた。本書が我々の暫定的理解とほとんど同じ理解を示していたことは、我々の素人読みが決して的はずれなものではなかったことを傍証してくれており、研究会主催者として自信になった。

(1)については、以下の件が我々の理解と重なっている。

ニーチェヘーゲル歴史観のうちに歴史の必然的発展をみる点では、ブルクハルトと同様で、それによって歴史における創造的生命の活動の余地がなくなり、大勢に順応して唯々諾々と歴史の流れるままに流れて行く虚弱人間を生ずるだけとみる。同時にそれがまた、歴史の与える知識を金科玉条とする百科事典式の人間を生み出すこととなるという。十九世紀は歴史の世紀といわれるが、その歴史は過去に耳をかたむけ、過去にかかずらわる人間をつくるだけである。こうした歴史主義的人間に対して人は忘れることを学ばねばならぬ。適当なときに忘れることができるということこそ、人は過去にかかずらわずに新しい飛躍をし得る根本条件である。(p.49)

この場合、歴史は伝統・因習と同義として把捉されている。僕が専門的に研究しているバークとは正反対の歴史観だ。

(2)について、ニーチェは、キリスト教を「弱者をかばってその存在の価値をたかめ、本来の強者の存在を無価値にすることを目標にする」(p.197)奴隷道徳だと論難しながら、他方で、イエス・キリストその人自身を「いまだ秩序づけられていないだれ一人として通ったことのない不確かな危険な道を、ただ一人いっさいの重荷を背負って全責任をもってたどろう」(p.198)とした人、「いっさいの道徳から自由になった人」(同)と肯定的な評価を下している。イエス自身は「超人」へとつながる「例外者」であり、既存の独特に対する態度の点では、ニーチェの同胞なのだ。

ニーチェも一方では反キリストでありながら、形骸化し空洞化したキリスト者に対してキリスト自身の中に狭い掟の枠に捉われない真のキリスト者をみ、自由人の理想をみているのである。(p.234)

(3)については、以下の件が我々の理解と重なっている。

畜群がヨーロッパ一般で発展を続けているとすれば、これに対して反対のタイプである指導者の発展が必要で、その育成と陶冶が意識的に試みられねばならない。・・・こうした新しい支配者の育成と結びついて「哲学者」についての新しい概念があらわれる。ニーチェによれば哲学者には二つの種類があって、一つは論理的または道徳的な価値評価について何かの偉大な事実を確定したいと欲する哲学者であり、他はそのような価値評価の立法者である哲学者である。・・・もとよりこの後者の方にニーチェの強調のあることは明瞭である。・・・哲学者は新しい価値の立法者だが、同時に偉大な教育者でなければならない。・・・そうした新しい哲学者像はニーチェ自身の姿でもあろう・・・。(pp.210-3)

ニーチェは本当に面白い。僕はすっかり魅せられてしまった。4期生O君、君がゼミで議論したかった宗教論って、実質的には教祖論・カリスマ論だから、ニーチェを「キノ研」で一緒に読んだのは大正解だね。

評価:★★★★☆