乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

ミヒャエル・エンデ『モモ』

現代ドイツを代表する童話作家の代表作の一つ。本書を手に取ったきっかけは、最近読んだ辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』*1三島憲一ニーチェ*2の両方で紹介されていたから。特に前者は4度も本書に言及する熱の入れよう。それもそのはず、両著作はスピードとフレキシビリティに象徴される現代ビジネス文明への批判というテーマを共有しているからだ。裏表紙には「小学5・6年以上」と書かれているけれど、その鋭い風刺はむしろ大人向け。*3ドイツ語で書かれた原作が公刊されたのは1973年、日本語訳がハードカバーで公刊されたのは1976年だが、30年近い歳月を経て、昨年ようやく文庫化された。待望の文庫化と言ってよいだろう。

ストーリーは比較的単純だ。

主人公の少女モモは古代の円形劇場の廃墟に住みついた浮浪児。年齢も素性もわからない。彼女には「人の話を聞く」という素晴らしい才能があった。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、みんな幸せな気持ちになるのだった。ある日のこと、彼女の住む町に時間貯蓄銀行の外交員と名乗る全身灰色ずくめの男たちが現われる。彼らの勧めに応じて、人びとは「将来」の成功と幸福のために、必死で「今」の時間を倹約するようになる。しかしそれは時間貯蓄銀行(時間どろぼう団)の恐ろしい陰謀だった。人びとは時間を奪われることによって、生きることの本当の意味を見失い、精神的に荒廃してゆく。モモは盗まれた時間を人間の手に取り戻すために、灰色の男たちとの戦いを決意するが、男たちはモモから友だちを奪うことによって対抗しようとする。

孤独というものには、いろいろあります。でもモモのあじわっている孤独は、おそらくはごくわすかな人しか知らない孤独、ましてこれほどのはげしさをもってのしかかってくる孤独は、ほとんどだれひとり知らないでしょう。・・・モモは時間の山にうずもれてしまったのです。・・・いまモモが身をもって知ったこと――それは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それをもっているがために破滅してしまうような、そのような富があるということだった・・・。
モモはある日、町で、まえにいつも遊びにきていた三人の子どもに会ったのです。パオロと、フランコと、小さな妹のデデをいつもつれていた女の子マリアの三人でした。みんな、ようすがすっかり変わっていました。灰色の制服のようなものを着て、みょうに生気のない、こわばった顔をしています。モモがうれしくなって声をかけたときでさえ、ほとんど笑顔を見せませんでした。
「すごくさがしたのよ。」モモは息をはずませて言いました。「これから、あたしのとこにこない?」
三人は顔を見あわせ、それから首をよこにふりました。
「じゃ、あしたは? それとも、あさって?」
また三人は首をふりました。
「ねえ、またきてよ! まえにはいつもきてくれてたじゃないの。」
「まえにはね!」パオロがこたえました。「でもいまは、なにもかも変わっちゃったんだ。もうぼくたち、時間をむだにできないのさ。」(pp.316-9)

「率直に話しあおうじゃないか。おまえはかわいそうに、ひとりぼっちだ。おまえの友だちは、おまえの手のとどかないところにいる。おまえは時間をわけてやろうにも、もうだれも相手がいない。これはぜんぶ、われわれが計画したことなのだ。われわれにどれほどの力があるか、わかっただろう。反抗したってむだだ。たったひとりでありあまるほど時間をかかえていても、いまのおまえにはなんになる? 心にのしかかる呪い、息もできなくさせる重荷、おまえをおぼれさせる大海、おまえを焼きつくす拷問じゃないか。おまえはあらゆる人間からきりはなされてしまったのだ。」(p.333)

戦いの結末は如何に? それは読んでのお楽しみ。

文学的なセンスに乏しい僕は、本書を啓蒙的な哲学書として読みたい。本書の中心テーマは時間だが、それ以外にも仕事(労働)、遊び(余暇)、友だち*4、うそ、想像力、孤独、夢、死などについて哲学的に考えてみたい人には、本書を最初の一冊としてお薦めしたい。もちろん童話としても秀逸で、とりわけ登場人物が魅力的だ。モモの二人の親友、道路掃除夫ベッポ、観光ガイドのジジの人生に降りかかる痛ましい運命に対しては、多くの読者が自分の人生であるかのように感情移入できるだろう。

訳者が「あとがき」で指摘しているように*5、モモが住んでいる円形劇場の廃墟は、この物語において俳優(登場人物)と観客(読者)の区別が取り払われていることの象徴である。

舞台のうえで演じられる悲痛なできごとや、こっけいな事件に聞きいっていると、ふしぎなことに、ただの芝居にすぎない舞台上の人生のほうが、じぶんたちの日常の生活よりも真実にちかいのではないかと思えてくるのです。みんなは、このもうひとつの現実に耳をかたむけることをこよなく愛していました。(p.12)

つまり、この物語がこれから現実に起こりうるかもしれないと示唆しているのである。エンデの予言は残念ながら的中してしまった。どのように的中したかについては、リチャード・セネット『それでも新資本主義についていくか』*6森岡孝二『働きすぎの時代』*7をぜひともご参照いただきたい。

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

評価:★★★★☆

*1:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20051016

*2:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20060109

*3:それに加えて、時間の国でのモモとマイスター・ホラとのやりとりは、小学生にとってかなり難解だろう。

*4:関連文献としてhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480041176/qid=1139676308/sr=1-25/ref=sr_1_2_25/249-8433312-5951558がある。

*5:三島憲一ニーチェ』82ページにも同様の指摘がある。

*6:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20050917

*7:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20050912