乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

荒瀬克己『奇跡と呼ばれた学校』

著者は京都市立堀川高等学校の校長。2001年に6人だった国公立大学現役合格者を2005年には30倍の180人に伸ばし、「堀川の奇跡」と呼ばれる公立高校改革を成功させた。その具体的実践を詳しく紹介している。

本書は様々な読み方が可能だろうが、一大学教員である僕は本書を「教員原論」として読んだ。教員のやるべきことが無限増殖しているようかのように思える昨今、時間的・経済的資源が限られているからこそ、教員がプロとしての誇りをかけて優先的に取り組むべき仕事の中身を明確化する必要がある。本書を読めばそれがとてもよくわかる。

一言で言えば、それは授業の中に生徒の「気づき」のための「きっかけ」「仕組み」「仕掛け」を組み入れる労を惜しまないことである。専門学科である探究科のカリキュラムの充実には目を見張るが、とりわけ、その探究科の基幹科目である「探究基礎」(第3章)は、生徒たちの知的可能性をいかに開花させるかに腐心した堀川高校の教員たちの努力の結晶である。*1

重要なのは、すべての生徒に「考えるきっかけ」を与えること。そうすれば生徒たちは、学ぶことの楽しさに気づき、自分の中にある能力を自分で引き出せることに気づいていきます。
生徒たちは自ら進んで行動しているように見えます。実際にこの時点では確かにそうですが、もしずっと放っておいたとしたら必ずしも主体的に動くわけではないでしょう。彼らが動きたくなるように、魅力的なテーマを見つけられるように、もっと学びたいと思えるように、生徒の興味や関心を引き出して、面白いと思える仕組みや仕掛けを随所につくっていく。それが、われわれ教員の仕事です。(p.110)

探究基礎の授業には、「生徒の主体性を育てよう」というもうひとつの大きな目標があります。
京都の公立高校では、古くから「自由と主体性」を大事にしてきました。しかし、その具体的な内容といえば、生徒会活動であったり、部活動であったり、授業とは直接関係ないものが主であったように思います。
そうではなくて、授業の中で生徒の主体性を育てられないだろうか。授業の中で耐性や、復元力や、協調性を育てられないだろうか。ちょっとめげても、また自分でやっていこうと思う強さを身につけられないだろうか。探究基礎はこのような思いから始まりました。(p.129)

ディベートの導入、学びの成果を外部に発表する研究大会の実施など、僕のゼミ運営と重なっている部分も多いけれども、基本的なstudy skillsの徹底した育成にかけては、まったく太刀打ちができない。そうした大学以上とも言える教育が「受験」という外圧に晒されている高校で実行されている(そして成功を収めている)ことには、驚きを禁じえない。「社会的責任は経営成功をもたらすか〜企業は正義の味方になりうるか〜」「涙の影響力〜相手の涙を見たときに生まれる感情についての考察〜」(p.107)といった発表テーマは、まるで僕のゼミの卒論報告会のようであるが、発表するのは何と高校2年生である。僕のゼミも、千里山大学も、もっと変わらなきゃ。努力が不十分なこと、努力の余地がまだまだ残されていることを痛感させられる。

「学校とは何をするための場所か」「学校を改革するとはどういうことか」を、杉山幸丸崖っぷち弱小大学物語 (中公新書ラクレ)』と読み比べながら考えると、きっと面白いだろう。

なお、同僚Hさんのブログでも本書は紹介されている。*2

奇跡と呼ばれた学校―国公立大合格者30倍のひみつ (朝日新書 25)

奇跡と呼ばれた学校―国公立大合格者30倍のひみつ (朝日新書 25)

評価:★★★★☆

*1:付言しておくと、著者は教員間の目標・知識の「共有」を非常に重視している。それがあってこそ改革は成功したと繰り返し力説している。

*2:http://d.hatena.ne.jp/hamano/20070131