乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

ドストエフスキー『死の家の記録』

著者は、言わずとも知れた、ロシアの文豪。本書は著者自身の獄中体験――1850年から53年までシベリアのオムスク要塞監獄にて政治犯として服役し強制労働に従事させられていた――の記録にもとづいて書かれたものであり、彼の名を世界的にした出世作である。

物語性は希薄なので、極秘潜入ルポのような感じで読むのがいいだろう。登場人物の性格描写の多彩さに最初から最後まで驚かされ続ける。自尊心と虚栄心と劣等感、希望と諦念とがない交ぜになった、生々しい人間の生が描き出されている。よくぞここまで人間を深く観察できるものだ。

本書を手に取ったきっかけは、猪木武徳経済思想 (モダン・エコノミックス 24)』の第6章が経済思想と労働観との関連について論じていて、そこで本書が紹介されていたからである。そのせいもあって、本書でいちばん印象に残ったのは、労働の描かれ方である。

ドストエフスキーの観察によれば、流刑地の囚人がいちばん大きな苦しみを覚えるのは、「土の山を一つの場所から他の場所へ移し、またそれをもとへもどすとかいう作業」のように、何の意味も目的もない無益な労働を強制される場合である。

たとえば、労働そのものにしても、けっしてそれほど辛い苦役とは思われなかった。そしてこの労働の辛さと、苦役であることの特徴が、労働が苦しく、絶えまないものであるということよりは、むしろそれが強制された義務で、笞の下ではたらかなければならない、ということにあることをさとったのは、かなりあとになってからである。世間の百姓のほうが、おそらく、比べものにならぬほど余計にはたらいているだろう。ときには、特に夏時分などは、夜なべまでしている。だが百姓は自分のために、筋道のとおった目的をもってはたらいているのであり、強制されて、自分のためにはまったく何の利益もない労働をしている囚人よりは、どれだけ楽かわからない。わたしはふとこんなことを思ったことがあった。つまり、もっとも凶悪な犯人でもふるえあがり、それを聞いただけでぞっとするような、おそろしい刑罰を加えて、二度と立ち上がれぬようにおしつぶしてやろうと思ったら、労働を徹底的に無益で無意味なものにしさえすれば、それでよい。いまの監獄の苦役が囚人にとって興味がなく、退屈なものであるとしても、内容そのものは、しごととして、益も意味もある。囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられているが、この労働には意味と目的がある。苦役の囚人が、どうかするとそのしごとに熱中して、もっとうまく、もっとぐあいよく、もっとりっぱに仕上げようなどという気さえ起す。ところが、たとえば、水を一つの桶から他の桶に移し、またそれをもとの桶にもどすとか、砂を搗くとか、土の山を一つの場所から他の場所へ移し、またそれをもとへもどすとかいう作業をさせたら、囚人はおそらく、四、五日もしたら首をくくってしまうか、あるいはたとい死んでも、こんな屈辱と苦しみからのがれたほうがましだなどと考えて、やけになって悪事の限りを尽すかもしれない。(pp.39-40) *1

ここでは課された労苦の物理的・客観的な量や強度は問題とされていない。囚人の強制労働よりも世間の農民のほうが物理的・客観的な労働量は多いだろうが、流刑地での強制労働には意味も目的も創意工夫の余地も著しく欠けている。それが囚人たちに屈辱感を与え、人間としての尊厳を著しく損なわせ、労苦を物理的・客観的なそれよりもいっそう重く感じさせるのである。しかし、非常に興味深いことに、監獄の中という極限的な状況においても強制されない自分の仕事を求め続ける囚人たちの姿もまた、ここには生き生きと描き出されている。先の引用では「囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられているが、この労働には意味と目的がある。苦役の囚人が、どうかするとそのしごとに熱中して、もっとうまく、もっとぐあいよく、もっとりっぱに仕上げようなどという気さえ起す」とあったが、先の引用の少し前の箇所でも囚人たちの労働への積極的な態度が次のように描き出されている。

要塞内での囚人の作業は、しごとではなく、義務であった。囚人は割当てられた作業を終るか、あるいは規定の労働時間がすぎると、獄舎へもどってゆく。囚人たちは作業をきらっていた。自分の知力の限り、能力の限りを注いで打込めるような、自分の特別のしごとをもたなければ、人間は監獄の中で生きてゆくことはできなかっただろう。・・・長い退屈な冬の夜に、囚人たちはいったい何をしたらいいのだ? だから、ほとんどすべての監房が、禁じられてはいても、大きなしごと場に変わってしまうのだった。・・・囚人たちの多くは何も知らないで監獄に来るが、他の囚人たちにならって、りっぱな職人になって監獄を出てゆくのだった。・・・囚人たちはみなはたらいて、わずかの金をもらうのだった。しごとの注文は町からとってきた。金は鋳造された自由である。だから完全に自由を奪われた人間にとっては、それは普通の十倍も尊いものである。・・・手しごとが囚人たちを犯罪から救っていた。しごとがなかったら囚人たちは、ガラス瓶に入れられた蜘蛛のように、共食いをはじめたにちがいない。(pp.31-33)。

どうやら人間は、生きている以上、働かずにはいられない存在で、しかも、自由に創意工夫できる、「自分の知力の限り、能力の限りを注いで打込めるような、じぶんの特別のしごと」を探し求めてやまない存在であるようなのだ。その「自分の特別のしごと」を通じて、人間は「人間らしさ」「生きる張り」「アイデンティティ」を保ち続け、人間であり続けることができるようなのだ。

古今東西、働くことをめぐっては多くのことが書かれ語られてきた。カール・シュミット『政治神学』に倣うわけではないが、例外的な状況においてこそものごとの本質が立ち現れるのだとするならば、「自分を特別な何者かとして表現したい」という自己表現への切なる欲求こそ、働くことの意味の核心部分をなす、と言ってよいのかもしれない。

死の家の記録 (新潮文庫)

死の家の記録 (新潮文庫)

評価:★★★☆☆

*1: 旧東独の監視社会の悲劇を描いた映画「善き人のためのソナタ」(2006年、ドイツ、アカデミー賞外国語映画賞受賞)にも、国家保安庁の任務に背いた主人公ヴィースラー大尉が無意味な単純労働(封筒開封作業)に刑罰として従事させられるシーンがある。