乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

中島義道『ひとを〈嫌う〉ということ』

8期ゼミのテキスト。HYSさんが選んでくれたもの。「脱常識の社会経済学――「あたりまえ」を問いなおす――」というゼミのテーマにぴったりマッチしており、しかも学部ゼミ生が親近感をもって読める内容(+気軽に買える値段)の書物は、本書以外にそれほど見当たらないのではないか。何しろ「ひとを嫌ってはならない」という「あたりまえ」を根底から問いなおそうとしているのだから。著者は読者に問いかける。「いったい、ひとを嫌うことはそんなに非難されるべきことなのか」と。

本書の主張はいたってシンプルである。他人を嫌いになること、他人に嫌われること(→自分と他人が対立すること)を「自然なこと」として受けいれることで、味わい深い豊かな人生が開けるのではないか、という洞察が随所で繰り返し展開されている。

・・・他人を好きになることは他人を嫌いになることと表裏一体の関係にあるのです。ひとを好きになれ、しかしけっしてひとをひとを嫌うなというのは、食べてもいいがけっして排泄してはならないというように、土台無理な話。
にもかかわらず、ひとを嫌うことの害悪ばかり指摘してその「自然さ」について論じたまともな書物が見あたらないのですから、驚きあきれます。いったい、ひとを嫌うことはそんなに非難されるべきことなのか。ひとを嫌うことは――食欲や性欲あるいはエゴイズムと同様――ごく自然であり、それをうまく運用してゆくことのうちに、人生の豊かさがあるのではないか。つまり、はじめから廃棄処分して蓋をしてしまうのではなく、「嫌い」を正確に見届けてゆくことは、「好き」と同様やはり豊かな人生を築く一環なのではないか。これが、本書で私の言いたいことなのです。(pp.7-8)

本書で私がつかんだこと、それは「嫌い」という感情は自然なものであること、そして恐ろしく理不尽なものであること、しかもこの理不尽さこそが人生であり、それをごまかしてはならないこと、このことです。こう確信して、私は少し楽になりました。(p.10)

・・・近しい人あるいは疎遠な人から、あるはっきりとした理由により、あるいは別にとりたてて何の理由もなく嫌われている(感じがする)場合、その人とどうつき合うべきか。
それは、とくに難しいことではない。軽くあっさりと嫌い合ってゆけばいいのです。対立し合っていけばいいのです。・・・お互いに嫌いであることを冷静に確認し合えばそれでいい。それが、どうしようもないことを認識し合えばそれでいい。「嫌い」がふたりのあいだに消滅する日が来るかもしれないが、それはまったくの偶然。変に期待しないで、淡々としていればいいのです。(p.35)

著者はカント哲学の研究者として高名である。本書にカントの名前は登場しないけれども、おそらく著者は利己心や嘘についてのカントの透徹な洞察を自家薬籠中のものにした上で本書を執筆している。著者は告発する。人間は嫌いの原因を追及しようとするが、たいていの場合、彼が本当に行っているのは、不快感を除去するために自分にとって都合のよい要因を無理にでも探し出して相手になすりつけているだけである。要するに、自分の罪責感を薄めているだけである。そこに存在するのは、単なる自己正当化・自己欺瞞・自己催眠・保身である。したがって、嫌いの自然性を認めることは、自分の身勝手さの自然性を認めることでもある。では、そのことから「豊かな人生」を築くことができる、とはどういうことなのだろうか?

長々と原因探求の旅をしてきましたが、じつは「嫌い」の原因を探ることには絶大なプラスの効果があるからです。自分の勝手さ、自分の理不尽さ、自分の盲目さが見えるようになる。そのために、ひとを嫌うことをやめることはできませんが(そして、その必要もないのですが)、自己批判的に人生を見られるようになる。他人から嫌われても、冷静にその原因を考えれば、たいていの場合許すことができるようになる。こうして、ほんとうの意味で他人に寛大になれる。(p.183)

『うるさい日本の私』*1などを読むと、著者は無用の対立を無理やり引き起こしているけったいな人物に見えてしまうのだが、本書を読むと必ずしもそうでないことがわかる。著者は車内放送に象徴される「偽」のやさしさ・寛容さを告発している。彼が目指しているのは対立ではなく「ほんとうの意味」での他人へのやさしさ・寛大さであり、後者こそ彼が「豊かな人生」の核心に認めているものだと思われる。*2

著者は自分自身の私的な体験(妻および息子に嫌われたこと)から本書の叙述を始めているが、本書が以下のような言葉で締めくくられていることに、「それでも家族が好きで好きででたまらない」という無条件の愛情を僕は感じてしまう。

私がこの歳になっても心から望むこと、それは夫婦とか親子とか親友とか師弟、さらには知人とか職場の同僚とかの「嫌い」を大切にしてゆきたいということ。そこから逃げずに、嫌うことと嫌われることを重く取りたいということです。どんなに誠心誠意努力しても、嫌われてしまう。どんなに私が好きでも、相手は私を嫌う。逆にどんなに相手が私を好いてくれても、私は彼(女)が嫌いである。これは、嘘偽りのない現実なのです。とすれば、それをごまかさずにしっかりと見据えるしかない。それをとことん味わい尽くすしかない。そこで悩む苦しむしかない。そして、そこから人生の重い豊かさを発見するしかないのです。(p.224)

これまでの自分の人生を振り返ると、そういう悩みや苦しみで満ち溢れていたように思う(そうでない人などいないと思うが)。今からでも関係を改善したい人は山ほどいるが、どんなに努力しても改善できない場合もある。いや、そのほうが多いだろう。しかし、だからこそ「人生の重い豊かさ」が発見できるのだとすれば、どれほど救われることだろう。

経済学部のゼミとしては、本書からどのようにして経済への糸口を見つけるかという問題が残ってしまうけれども、「嫌い」と密接に関係している「差異」についての考察から、ファッション分析に進むなんて方向が考えられるだろう。もちろん、無理やりに関連づける必要はないけれども、現実の経済を動かしているのは個々の人間なのだから、人間についての深い思索が経済と無関係なはずがない。ゼミ生には常にこのような観点からテキストを読み進めてもらいたい。数式やグラフがわからなくたって、経済を学ぶことはできる。学ぼうとする意志を失いさえしなければ。

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

評価:★★★★★

*1:旧「乱読ノート」2003年7月 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nakazawa/reading2003.htm

*2:さらに言えば、「好き」と「嫌い」が表裏一体であることを認めることにより、自分のデメリットをメリットへと読み替えることが可能となる。例えば、自分がチビであるとしても、「どうせチビだから・・・できない」ではなく「チビだからこそ・・・で勝負できるはず」と考えられるようになり、健全な自尊心を育むことができる。