乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

城山三郎『無所属の時間で生きる』

オーストラリア出張の往路フライトで一気に読んだ。

我が国の経済小説のパイオニアによるエッセイ集。収録されている36本のエッセイは、「無所属の時間を生きる」というタイトルで、雑誌『一冊の本』(朝日新聞社)に連載されたもの(1996年4月号〜1999年3月号)。著者は1927年生まれであるから、おおよそ69歳から72歳にかけての作品ということになる。

「無所属の時間」とは、「肩書きをふるい落とし、どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間として過ご」(p.17)す時間のこと。それは「人間を人間としてよみがえらせ、より大きく育て上げる時間」(p.18)である。経済小説・戦争小説において、組織の怖さ・醜さ、組織の中の人間の苦悩を描き続けてきた著者ならではのテーマであると言えよう。

著者自身は三十代半ばに大学教員を辞して、文筆一本の生活に入った。その意味で「無所属の時間」を謳歌し続けているわけだが、当然のことながら、無所属であるがゆえの苦労も多い。僕は著者が辞した大学組織に身を置いているわけで、無所属であるわけがないのだが、創作活動と研究活動との間には共通点が多く、著者の言葉に幾度となく励まされた。そして、身を引き締められた。

・・・専業作家という自由な身分をすてたことと、氏[=高橋和巳]の早世とは無縁でないような気がし、あらためて惜しまれた。
創作も学問研究も、いずれも無定量・無際限の努力を要求するものであり、その二本立ては、神経や精神をぼろぼろにさせずにはおかぬはずだった。(pp.16-7)

サトウサンペイ氏に、
「三日続けて仕事をしないと、頭の配線図が消えてしまう」
との迫力ある言葉があるが、この道四十年の私も、とにかく配線図が消えてはならぬと、いまもなお、おびえている。(p.47)

・・・六十前後から、またまた深夜の不眠がはじまった。
・・・私は大岡[昇平]さんのように深夜起き出して仕事に挑むというのではなく、横着だが、横になったまま、ぼんやりと仕事のことだけ考える。
そのうち、靄のように、小さな泉のように、にじみ出てくるものがあり、放っておくと、それが渦のように頭の中で回りはじめ、いよいよ眠れなくなってしまうので、とにかく、それをメモ帳に書きとめる。
すると、ふしぎに渦巻きは止まり、再び眠りに落ちて行く。
そして、次の日は、そのメモを手がかりの一つにして、下書きにかかる。(pp.53-4)

率直に言って、物を書くというのは、三十年四十年経っても辛い仕事であることには変わりはない。気が重くなり、いやになる。
とりわけ連載を書いている時期の他の仕事は、本来の仕事の流れを中断し、頭を洗い直して始めなければならない。
また、そちらを書き終えて、本来の連載の仕事に戻ろうとしても、これが簡単にはスイッチ・オンしない。投手で言えば、肩が冷えてしまっており、ウォーミング・アップからやり直さなくてはならず、また一苦労。
・・・。
ところが、とにかく書いている中、作品がうまく進み始めると、みるみる充実感が湧き、つらさはどこかへ吹きとんで、ああこういう仕事を選んでよかったと、ひとりほくそ笑む。(pp.193-4)

最後の引用にある「スイッチ・オン」の難しさは、講義や会議を終えたすぐ後に書きかけの論文の続きを書こうとする際、恒常的に感じているところである。ただ、大学教員は月給取りであるがゆえに、「無定量・無際限の努力」を簡単に放棄することもできる。堕落への誘惑がそこかしこに待ち構えている。自分を律することの大切さを今さらながらに再確認させられた。

城山さんは鋭い独創的な切り口で読者を魅了する類いのエッセイの書き手でない。淡々とした筆致もあって、本書に多少の物足りなさを感じなくもないが、城山小説のファンであれば、執筆の舞台裏を垣間見させてもらえたことに大きな喜びを覚えるはずだ。

無所属の時間で生きる (朝日文庫)

無所属の時間で生きる (朝日文庫)

評価:★★★☆☆