乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

矢吹晋『文化大革命』

オーストラリア出張の復路フライトで一気に読んだ。現代中国を語ろうとする際に避けては通れない「文化大革命」(1966〜76)の理想と現実が、コンパクトにまとめられている。

国史の勉強を再開してから日が浅いし、もともと持っていた知識も学部レベルの域を出ない。本書に書かれている内容を批判的に吟味したくても、そのために必要な十分な能力をまだ僕は持ち合わせていない。「激動の10年間の概要がよくわかり勉強になった。とても便利でありがたい本だ」というのが率直な感想だ。しかし、これだけではあまりにも芸がない。素人談義に堕してしまうことを承知で(後日撤回の可能性大)、いくばくかの雑感を書き連ねておきたい。

本書を読むまでの僕の文革イメージ(理解)は、「大躍進と人民公社政策の失敗によって共産党内での威信を低下させた毛沢東が、威信回復のために起こしたクーデタ」であって、「クーデタの遂行のために大衆(特に若者)の負のエネルギー(官僚主義化した党への不満)が大々的に利用された」というものであった。本書を読むかぎり、こうした理解は決して誤りでないものの、過度に単純化された理解だったようだ。僕は権力主義者としての毛沢東イメージから文革を眺めていたわけだが、実際のところ、毛沢東と大衆の双方にとって、党の官僚主義化はすぐれてリアルな問題であったようだ。

ソ連や東欧諸国と同じく、中国にもノーメンクラツーラと呼ばれる高級幹部たちがいる。・・・幹部は約二千万人(人口の約一・八パーセント)いるが、このうち高級幹部は約十万人(人口の〇・〇一パーセント)である。文革が打倒対象とした実権派とは、まさにこの階層にほかならない。しかし彼らは一時的に権力から外されたものの、現実の文革が破産した後、死者は別として文革後そっくり復権し、文革以前と同様に特権を行使している。この意味では、大衆路線を忘れた幹部を修正主義者として批判する文革は所期の目的を全く達成できなかったことで大失敗であったわけである。
しかしこのような観点からの文革評価はほとんどない。(p.41)

党の指導が命令主義、強圧主義に転化するなかで窒息しそうになっていた中国の大衆、なかでも感受性の豊かな学生たちは、大衆の自己解放というアピールに大きな魅力を感じたようである。(p.97)

実際、『毛沢東語録』を読むと、文革のかなり以前から毛沢東が「大衆重視」「党の官僚主義化への不安」(さらには「修正主義批判」)を唱えていたことがわかる。それらは文革遂行のためのスローガン以上のもの(毛沢東の生涯にわたる根本哲学)であった。その意味で、毛沢東は単に大衆を利用の対象として見ていたわけでなかった。権力奪回のための一時的便法として文革が唱えられたわけでなかった。

確かに、著者が指摘するように、毛沢東文革理念には「現実から遊離した空想的社会主義」(p.90)が見られる。しかし、それは「党の官僚主義化」という現実的危機に根ざしており、その危機の克服のために描かれた理想でもあったと言えよう。僕の専門であるイギリス思想史と絡めるならば、名誉革命*1を「現実的な解法」として受け入れることのできなかった純粋なトーリが、ジェイムズ2世の直系の男子こそが正当な国王であるとして、最終的に武装蜂起に至った事実(ジャコバイトの反乱)に対して、僕は毛沢東の「修正主義」の拒絶と思想的に一脈通じるものを感じてしまうのである。ジャコバイトの思想が単なる復古主義でなかったのと同じ意味で、毛沢東の思想も単なる空想でなかった。

我々は「現実から遊離した空想」のみならず「現実主義の陥穽」にも目配りを忘れないようにしたい。何だか言いたいことが混乱してきたが、一つの物差しで文革期の毛沢東を断罪したくない、という気持ちがインクのしみのように心の底に残ってしまったのである。現時点の乏しい知識ではこれ以上は何も書けない。もっともっと勉強して、もっと良いレヴューを書きたいと思う。

共産党員は、民衆運動において民衆の友となるべきで、民衆の上司となってはならない。倦むことを知らぬ教師となるべきで、官僚主義政治屋となってはならない。【「民族戦争における中国共産党の地位」(1938年10月)】*2

文化大革命 (講談社現代新書)

文化大革命 (講談社現代新書)

評価:★★★★☆

*1:カトリックを擁護した国王ジェイムズ2世が王位から追放され、プロテスタントで反カトリックの娘メアリとその夫オレンジ公ウィリアムが共同統治の新国王として招聘された無血革命。

*2:毛沢東語録』より