乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

新村美希『百貨店ガール』

日本橋高島屋ご案内係リーダーの奮闘記。自分が客として百貨店を訪れる際には当たり前に感じがちな彼女たちのサービスが、どれだけ涙ぐましい地道な日々の努力によって培われているかがよくわかる。

どんな本でもそうだが、読むタイミングは大切だ。本書はとりわけ就職活動開始を目前に控えた3回生に薦めたい。働くことの意味、プロ意識、ブランド力の本質、相手に伝わる話し方、暗記・反復の重要性、演じる自分を楽しむ、お客様の「気配を読む」、等々、この時期に読むからこそ強く心に響き残る何かがあるはずだ。

僕は串カツ屋の長男として生まれ育ったこともあり、お商売の現場の話を聞いたり読んだりするのが大好きである。両親が働く現場を見て育ったので、自分の食いぶちがいつどこで生まれているかは、子どもの目にも一目瞭然だった。その感覚は研究者となった今でもひつこく残っている。僕は思想史の研究者であるけれども、研究活動で食っていると思ったことはない。自分の価値観を他の同業者に押し付けるつもりはないが、研究活動は本書で言うなら(現場で働くために必要な)研修活動のようなもので、そのような見えない努力が価値として実現するのは、やはり学生(および彼らのご父母)と接する現場を通じてである。その意味でやはり学生は「お客様」だと思うのだ(異論はあるだろうが)。本当に研究活動で食っているのなら、どこの大学にも所属しないフリーの研究者としても食えるはずであるが、それでは食えない人が大半であるわけだから、これこそが研究活動で食っていないことの証である。研究者の自分を教育者の自分に従属させろ、という意味ではない。それは冒険家が冒険活動それ自体だけで食っていない(講演会などで稼いでいる)のと同じで、それでもやはり彼は冒険家である。好きな研究(冒険)を思う存分させてもらう前提として、教育(講演)者としての自分がある。定期的に本書のような本を読んで、商いの原点を思い出すことは、「自分が研究活動で食っている」などと傲慢な気持ちに陥らないために必要なのである。*1

ちょっと脱線が過ぎたかもしれない。

本書を読んで唯一残念に思ったことは、とどまることを知らない消費不況のため、百貨店業界が大いなる苦戦を強いられており、高島屋マインド(著者はそれを誇り高く語る)を象徴するこのようなサービスですら、高島屋は自前(正社員として)でなくアウトソーシングという形で育成・提供している事実である。著者が携わっているような種類の仕事は高島屋のブランド力の根幹に関わるもので、一朝一夕で育成できるものでなく、いったん質が低下してしまうと、その回復は想像以上に困難である。国内各種メーカーでは団塊世代の大量退職で熟練技能の伝承の問題がクローズアップされているが、同種の問題がここにも潜伏しているように思われた。

豊富で美しい写真。装丁も立派。これが定価1000円(税込)で売られているなんて、最近ではまずありえないことである。著者だけでなく出版社も頑張っている。「〜ガール」「〜レディ」シリーズの中の一冊のようだが、同じシリーズの『新幹線ガール』なども面白そうだ。機会があれば読んでみたい。

百貨店ガール

百貨店ガール

評価:★★★★☆

*1:もちろん、部分的には、世界レベルの研究成果を公表するなどして、研究者としてだけで十分に食っている人もおられるので、自分の見解を一般化するつもりは毛頭ない。