乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

トマス・ペイン『人間の権利』

京大・田中ゼミの後輩の院生から「(「乱読ノート」で)経済学・哲学古典や専門的研究書をたまには取り上げてくださいよ」と言われることがある。たしかに「乱読ノート」で読んだ本のすべてを取り上げているわけではない。研究のために読んだ古典や専門書は基本的に除外して、趣味のために読んだ小説や教育(講義準備・ゼミ指導)のために読んだ啓蒙書・一般書(特に新書)を主としてとりあげてきた。その第一の理由は「乱読ノート」の読者として関大経済学部生を想定しているからだが、それ以上に大きな理由は、古典や専門書のレヴューを書くことが余計なストレスやプレッシャーを伴うからだ。

読者が関大経済学部生に限られるならば、かなり大胆に(≒粗雑に)書くことも許されるだろう。しかし、web上に公開する以上、専門の近い同業者の目に触れる可能性を考えないわけにはいかない。専門分野での発言は専門家としての発言として受け取られてしまいがちであるから、厳密であろうとして、それだけで筆が鈍くなってしまう。さらに完成途上の論文のネタばれにつながる恐れもある。だからこれまで意図的に避けてきたが、今回は何となく書いてみようという気になった。

僕はエドマンド・バーク(1729-97、18世紀イギリスの代表的政治家・政論家)の研究者として学界にデビューした(その後研究対象をマルサスへ広げた)。そのバークの主著が『フランス革命省察』(1790)だ。バークは『省察』において、「保守するための改革」としてのイギリス名誉革命を讃美し、非歴史的で抽象的な「人間の権利」に基づくフランス革命を厳しく論難した。バークのこうしたフランス革命批判を反駁するためにトマス・ペイン(1737-1809)が著したのが本書『人間の権利』(1791-2)だ。ペインはフランス革命アメリカ革命の模倣と見なし、両革命を「破棄しえない生得の権利」としての「人間の権利」に由来するものとして力強く擁護した。

このたび社会思想史学会での報告原稿を書くために『権利』を約5年ぶりに再読した。記録によれば、初めて読んだのは修士課程1年だった1993年11月。おそらく今回が4, 5回目の通読になると思う。古典を読むことの面白さは、読み直すたびに新しい発見があることだ。『権利』の場合、『省察』の理解が深まると、相乗効果で『権利』の理解も深まる。両者の議論の共通点やすれ違いにも気づくようになる。また自然権、共和主義、救貧、教育など、僕の抱いている問題関心がその時々によって違うから、問題関心に近い叙述が印象に残ることになる。結果的に読むたびに印象が異なるわけだ。

今回はバークとの対比および共和主義との関係を特に強く意識して読んだ。両者とも「小さな政府」「(商業における)自由放任」に支持を与えつつも、その内実・論拠の大きな相違が興味深かった。ペインにおいては「代議制(共和国)=小さな政府=平和的」「君主(世襲)制=大きな政府=好戦的」という図式が鮮明だ。君主(世襲)制を廃止してはじめて世界に平和が到来するのだ。

共和国が戦争に突入しないでいられるのは、その政府の性質が国民の利害関係とはまったく異なる別の利害関係を許さないからにほかならぬのではないか。(p.188)

共和政府とは、全体としても個人としても、公共の利益のために樹立され、運営される政府であるにほかならない。それはかならずしもある特別の形態と結びつく必要はないが、代議制形態と自然に結合する。・・・。
アメリカの政府は、完全に代議制のうえに成り立っていて、性格の点でも実際の点でも、今日存在する唯一の真の共和制である(pp.235-6)

そのアメリカが今日の世界で最も好戦的な国家の一つであるという事実を知ったら、ペインは何と返答するだろうか?

ペインの「小さな政府」は(我々の慣用的な語法とは異なって)「福祉国家」でもある。バークは摩擦的失業者の救済を教区教会に委ねるから、社会福祉の観点からも国教会制度が重要な役割を果たしている。以下のように国教会制度を全面的に拒絶するペインとはあまりにも対照的だ。

いわゆる国定の宗教はどうかと言えば、国定の宗教などといったものを口にするのは、国定の神といったものを口にするのとまったく同じことであって、それは、政治上の術策か、各国民がそれぞれ別個に独自な神を持っていた異教時代の遺物か、そのいずれかであるのだ。(p.388)

最後に、少々長い引用になるが、200年以上前のものとは思われないペインの生々しい言葉をお届けしよう。これが今回の再読でいちばん印象に残った叙述だ。

わたしは本書をおえるに当って、宗教というものがわたしにはどうのように思えるか、その点について述べておきたい。
さて、ある一家に子供が大勢いて、その子供たちは、ある特定の日ないし特定の機会が訪れると、いつも両親に自分たちの愛情と感謝のしるしとして何らかの贈り物をするのを習慣にしている、としてみよう。そのような場合、子供たちはそれぞれ異なったものを、しかも十中八、九まで異なった方法で贈ることだろう。
ある子供は詩や文章を作って、またある子供たちはそれぞれの天分の命ずるところに従って、あるいは両親が喜ぶであろうと考えるところに従って、何かちょっとした工夫を試みて、祝いの気持を表わすであろう。そして一番小さな末の子は、いま言ったようなことが一つもできないところから、おそらく花畠か野原へぶらぶら出て行って、一番美しいと思う花を見つけると、たとえそれが平凡な雑草にすぎないかもしれないにしても、その花を摘んで来るであろう。そして両親は、こうしたさまざまな種類の贈り物をされたほうが、子供たちが一人残らず予め申し合わせた一つの計画に従って行動して、どの子供もまったく同じな贈り物をしてくれる場合よりも、一層満足を覚えるであろう。
・・・親にとってありがたくないことがいろいろある中でも、親を一番悲しませるのは、贈り物をしてくれたのはいいが、その後で子供がみんな、男の子も女の子も一緒になって喧嘩をはじめて、だれのが一番素晴らしい贈り物で、だれのが一番下らない贈り物だったかと、互いに掴み合ったり悪口雑言を言い合ったりするのを見ることであろう。
あらゆるものの偉大な父は、さまざまな種類の信心をお喜びになるものであり、わたしたちの犯す犯罪の最も大きな罪は、互いに相手を苦しめ、不幸な目に会わせようと努める罪だ、となぜわたしたちは考えてはいけないのだろうか。(pp.386-7)

「親」を「nakazawa」に、「子供」を「nakazawaゼミ生」に、「贈り物」を「ゼミへの貢献」と読み替えてもらえれば、それがそのまま(「力を出し切る」と並ぶ)僕のゼミ運営の基本方針ということになるかもしれない。日々ゼミ運営に頭を悩ませているせいだろうか、ペインの文章を読んでもゼミのことを連想してしまう(苦笑)。

なお、古典の面白さについては、2期生akira9231君が彼自身のブログ*1に記してくれているので、それも参考にしてもらいたい。新書の面白さとの違いがよくわかる。

人間の権利 (岩波文庫 白 106-2)

人間の権利 (岩波文庫 白 106-2)

評価:★★★★★ (これでご飯を食べさせてもらっているので敬意を表して)