乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

佐藤学『習熟度別指導の何が問題か』

本文わずか70ページの小冊子(ブックレット)だが、中味は濃い。近年小学校・中学校で急速に普及している「習熟度別指導」を実証的な調査研究にもとづき批判的に検討している。そして、「習熟度別指導」に代替する学びの様式として、「協同的な学び」「互恵的な学び」を提案している。

実証的な調査研究を踏まえれば、「習熟度別指導」の無効性(生徒間の学力格差の拡大、学校全体の学力の抑制)と危険性(人種・階級・階層差別の組織化)は明白であるのに、なぜ容易に普及してしまうのか? その理由としては、著者によれば、特権的なエリートの教育を求める保守政治家の圧力(p.7, 10, 13, 22)、マイノリティの排除を求める人々の政治的圧力(p13, 36)に加えて、子どもや親そして教師の多くが抱いている「素朴な観念」がある。

その素朴な観念とは、習熟度や能力の異なった集団で授業を受けるよりも、できる子はできる子同士で授業を受け、できない子はできない子同士で授業を受けたほうが教育の効果があがるという考え方であり、できる子は高いレベルの内容、できない子は低いレベルの内容を教えたほうが教育的に効果があるという考え方です。
この素朴な観念がいかに多くの間違いを含んでいるかは、オークスの研究をはじめ、これまでの膨大な調査研究の結果が示しているとおりです。しかし、それにもかかわらず、この素朴な観念は簡単に揺らぐことはないでしょう。この素朴な観念は、わかりきったことを教えられ退屈してしまった「できる子」としての体験、あるいは、難解な内容を教えられ理解できなかった「できない子」としての体験という個々人の被教育体験にもとづく実感によって形成されてきたものだからです。
この素朴な実感の前提を問い直す必要があります。(pp.38-9)

(政治や経済などとは違って)教育については誰もが何らかの具体的「体験」を有しているので、具体的(≒限定的)「体験」にもとづく一面的「実感」にすぎないものが、ただちに一般論へと昇華されやすい。そこにひそむ陥穽に我々はもっと自覚的であるべきだろう。*1

細部に目を向けても、読みどころが多い。「習熟度別指導」の導入における無責任体制(p.11)。いわゆる「PISAショック」*2の意味(p.17)。ポスト産業主義社会における生涯学習の必要性(p.26, 51)。ドリル学習への疑念(p.28, 54)。「プログラム」(段階)型の学びから「プロジェクト」(課題)型の学びへ(p.64)。教室のみならず企業や工場においても「競争」よりも「協力」が有効(p.42)*3。学校の塾化(p.55)。興味深いトピックが目白押しだ。小著だが啓発力に富む好著である。

ただ、あえて注文をつけるならば、「多様な能力や個性をもった子どもたち」(p.40)という前提に一定の留保が必要なように思う。著者も十分に認識しているだろうが、個性とは美しいが危険な言葉である。無邪気で無限定な個性礼賛は「「個性」を煽られる子どもたち」(土井隆義)を大量に生み出してしまう。「自分には個性がない」と思い悩む子どもに対して、著者はどのように応答するのだろうか?

習熟度別指導の何が問題か (岩波ブックレット)

習熟度別指導の何が問題か (岩波ブックレット)

評価:★★★★☆

*1:広田照幸が指摘するように、少年犯罪の増加や家庭の教育力の低下をめぐる議論にも同様の陥穽が見られる。

*2:2000年に実施された国際学力比較テスト(PISA)でフィンランドが段トツで世界一の高学力を獲得した。

*3:こうした調査結果は高橋伸夫の議論ともマッチする