乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』

著者の名前は以前から知っていた。重松清編『教育とはなんだ』*1の中の「教員室―教師はいかにして疲れてしまうか」という章で重松さんの対談相手を務めておられるカウンセリング心理学者である。名前を知っていただけではなく、彼が主張する「トランスパーソナル心理学」というものにも少なからず興味を持っていたが、意図的に避けていた。その理由は、「人間の生の究極的な意味・使命・目的は、自己と「宇宙」「自然」とのつながり(一体感)を回復させることによって得られる」というその基本主張に、心理学の名前に似つかわしくない宗教的な何かが感じられたからである。かなりの年月を経て、今回ようやく実際に読んでみたけれども、当初のイメージを払拭することはできなかった。むしろ、イメージ通りだった。

第5章「むなしさを越える心理学(1):フランクル心理学で「生きる意味」を感じる」までであれば、さほど宗教臭さは感じられない。自分のことを必要とする「何か」や「誰か」とのかかわりのなかで、私たちは「人生の意味」を発見し、それによって「癒される」。このフランクル*2の主張に僕は全面的な賛意を表明するし、同じような観点から「働くことの意味」についての論文を書いたこともある。*3

・・・フランクルの講演会の後、聴衆の一人が次のように反論したという。
「あなたは何とでも言えますよ。精神科医として、人を助ける仕事をしているのですから。それはやりがいがあるでしょう。でも私は、ただの洋服屋の店員です。どうしたら人生を意味のあるものにできるんですか」
これに対してフランクルは、大切なのはどんな仕事をしているかではなく、自分に与えられた仕事をまっとうすることだと答えている。与えられた仕事の中で自分にできること、実現できる意味が必ずあるはずだから、それを見つけることが大切だと言うのである。
たとえば、洋服や化粧品の販売員であれば、客にあった服装や化粧品を探すことで、「自分の人生を演出する楽しさ」「自分の個性を磨き、エンジョイすることの大切さ」を伝えることができるはずである。とても魅力のある仕事である。(pp.141-2)

ところが、こうした議論と第6章「むなしさを越える心理学(2):トランスパーソナル心理学で「宇宙の中の自分」を感じる」で展開されている議論との間には、明らかに大きな隔たりがある。超常体験・神秘体験・生まれ直し(出生体験の再体験)などによって「癒される」こと、体験内容の客観的な真偽は大した問題ではないことを強調されると、急にオカルト的な世界に足を踏み入れたようで、さすがに身体が拒絶反応を示してしまう。

以下のような叙述に僕は強く胸を打たれた。それは確かだ。しかし、果たしてこれが「心理学」なのだろうか?

いろいろなことが思うように運ばない。悩んでも悩んでも、ちっとも事態は変わらない。
にっちもさっちもいかなくなって、死にたいと思うのだけれど死に切れない。自分の置かれている現実から逃げるわけにはいかないことはわかっている。
けれどふと、あまりの重苦しさに耐え切れなくなって「もう、どうにでもなれ」「どうなったって、かまわない」と、すべてを投げ出してしまいたくなる。
そんな時私たちは、それでも自分のからだの内側に、ほのかに息づく何かを感じることがある。死のうが生きようが関係ない。そのような私たちの思い煩いとは関係なく、からだの内側で勝手に生き動いている何かを感じることがある。
それが、ここでいう〈いのちの働き〉である。・・・。
次の例を見よう。「どう生きればいいのか」考え続けるうちにうつ状態になってしまったという女子学生。彼女は手紙に、次のように書いている。
「現在はよくなったのですが、その時はほんとうにつらかった。死にたくなるのをなんとか抑えようと必死でもがくのですが、焦るばかり。緊張するばかりで何の解決も見つからぬまま、ただ空振りしたような疲れが生じるだけで、また死にたくなるという悪循環のくり返しでした。「死にたい」と「生きたい」がせめぎあい、あまりの疲れに思考停止した時でした。「死にたいのに死ねないというのは、私は生かされているにちがいない」――そう見方を変えただけのことが私を楽にしました。頑張らなくても、自分がそこにあったのです。心のもやもやが急に晴れ間を見せた気がしました。」
「死にたい」と「生きたい」がせめぎあう。そのあまりの重苦しさに疲れ果て、もう何も考えることができなくなった時、「死にたいのに死ねないのは、生かされているということだ」と彼女は気づいた。それがうつから立ち直る一つのきっかけになったという。
ここに私は、〈いのちの働き〉の顕現を見る。それは、ただ私たちのほうが気づかずにいるだけで、常に既に、私たちの内側で、生き動いているのである。(pp.190-1)

これが宗教者から放たれた言葉であったなら、一つの講話として割り切って、素直に耳を傾けられたかもしれない。しかし、これは心理学者の言葉なのである。僕は困惑しているが、著者自身に迷いはない。

フランクル心理学、トランスパーソナル心理学と進んできたが、いかがだろう。
何だか宗教みたいだな、と思われた方もいるのではないだろうか。
私もそう思う。そして、それでいいのだとも思う。何故なら、かつて人々に生きる意味と希望を与える役割を果たしてきたのは宗教であり、これらの心理学は、科学が発達した現代という時代に、それに代わるものとして登場してきたものだからである。
・・・しかし、やはり違いもある。最も大きな違いは、浄土とか天国といった確認不可能な世界については可能な限り言及を控えていることと、心理学を始めとするさまざまな経験科学の成果やサイコセラピー(心理療法)の実践の中で得られた臨床的データに基づいてものを言っている点である。(p.172)

本書は僕に大いなる感動を与えてくれた。エネルギーを注入してくれた。読んで良かったと思っている。それなのに高く評価できない。実に悩ましい本である。

<むなしさ>の心理学 (講談社現代新書)

<むなしさ>の心理学 (講談社現代新書)

評価:★★★☆☆

*1:旧「乱読ノート」2004年10月 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nakazawa/reading2004.htm

*2:アウシュビッツ強制収容所での体験記『夜と霧』の著者として有名である。

*3:「経営戦略としてのコミュニケーション――「適正規模の組織」による「働くことの意味」の再発見――」, ビジネス・エシックス研究班『ビジネス・エシックスの新展開』(関西大学経済・政治研究所研究双書第147冊), 2008. 3, 第VI章, pp.139-170.