乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

大平健『診療室にきた赤ずきん』

著者は精神科医。ゼミテキストとしてこれまで何度も使用してきた『やさしさの精神病理』の著者でもある。本書は「ねむりひめ」「赤ずきん」「つる女房」といった誰もが知っている物語(昔話・童話)を利用して治療に成功した十二の事例を紹介している。

精神科の外来を訪れる患者は、心の不調に気づきながらも、その不調の真の原因に気づいていない場合が多い。気づいていないからこそ、もがき苦しんでもなかなか不調から脱出できず、むしろ不調を悪化させる悪循環に陥り、ますます絶望的な気持ちになってしまうのだ。

著者は患者が何に心を痛めているのかを面接によって慎重に(患者の気持ちを汲みながら)探ってゆく。それが見えてきたら、おもむろに最適な童話を語り聞かせ、患者本人が自分から不調の真の原因に気付くように誘うのである。

本書のキーワードは「自分の物語」だと思う。著者はどんな人間にも「人生のおりおりに、そのつどの自分の物語がある」(p.189)と考えている。心の不調とは「自分の物語」を喪失・忘却してしまった苦しみなのだ。だからこそ、昔話や童話が自分の人生と絶妙に符合することに気づいた患者は、その不思議さに心を奪われ、「自分の物語」が存在していることを確認して喜ぶのだ。「物語に癒される」とはそういうことだ。

どうして「自分の物語」が必要なのだろうか? 心の薬になるのだろうか? 著者自身は明示的に記していないが、おそらく、人間は自分の人生の無意味さに耐えられるほど強い生き物ではない、ということなのだろう。「人生の意味」という病を誰もが多かれ少なかれ患っている、とまで言えるかもしれない。*1

箱庭療法」というのは聞いたことがあるが、「物語療法」というのは聞いたことがなかった。しかし、この療法は人間存在の本質に間違いなく触れている。

もちろん、「こんなにうまくいく場合ばかりではないだろう」という疑問は残る。患者が精神科医の言葉を拒み続け信じようとしない場合などはないのだろうか? おそらく、そういうバタ臭いプロセスは端折って書いているのだろうが、文章があまりにもまとまりすぎていて、十二例とも予定調和的な印象を与えてしまう。それが本書に対する唯一の不満かもしれない。

12月に行われる学内ゼミナール大会に7期ゼミが出場することになった。テーマは「『癒し』と『私探し』の社会経済学」に決まったばかりだ。安価かつ平易でテーマ的にもぴったりな本書は、大会準備の過程で大いに利用されそうな予感がする。

診療室にきた赤ずきん―物語療法の世界 (新潮文庫)

診療室にきた赤ずきん―物語療法の世界 (新潮文庫)

評価:★★★★☆

*1:このような流れから、次回では諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』を採りあげたい。