乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』

8期ゼミのテキスト。本書が選ばれたそもそものきっかけは、8期生HYSさんが「『ランチメイト症候群』をテーマにゼミをやってみたい」と提案してきたこと。「ランチメイト症候群」とは、お昼を一緒に食べる相手がいないと、その孤独に耐えられず、恐れや不安を誘発する(時には登校拒否・出社拒否の状態に陥ってしまう)精神症状のことで、特に若い女性に多く見られる。HYSさんは自分にもそうした症状が少なからずあることを気にかけていて、ゼミのテーマにしたいと思ったようだ。

ランチメイト症候群の根幹には、周囲のまなざしを過剰に気にかけ、それを自らのうちに内在化して、自分を責めてしまうこと、一言で言えば、周囲に対する過剰適応がある。

頭が悪いとか、成績が悪い、運動神経がまったくない・・・人間にとって欠点はたくさんあります。
しかし、その中で、今の若者たちにとって一番つらいのは、「あいつ、友だちいないんじゃないか」と思われること。
頭が悪いと思われるより、運動神経がないと思われるより、容姿が悪いと思われるより、「友だちができないやつ」と思われることほど、みじめでつらいことはない。
いまや、「友だちがいるか、いないか」は、若者たちにとって、人間診断の最もシビアな基準となっているのです。
そしてやっかいなことに、当の、ひとりぽっちの人間も、このことを知っている。“うちなる物差し”として、この基準を持っている。
だから、その物差しによって自分を責め始める。自分で自分を追い詰め始める・・・。完全な自己否定の悪循環に陥ってしまうのです。(pp.35-6)

こうした悪循環から抜け出すためには、「孤独=悪」という世間の価値観を根本的に覆す必要がある。心理学の用語で言うところの「リ・ビジョニング(revisioning)」が必要なのである。本書は、トランスパーソナル心理学の知見にもとづきながら、孤独であることの積極的意味を説き、リ・ビジョニングのためのカウンセリングの技法と思想を解説している。

ちょうど去年の今ごろ、同じ著者の『〈むなしさ〉の心理学』を読み、この「乱読ノート」でもレヴューしたわけだが*1、その時は超常体験・神秘体験・生まれ直しなどによる癒しが強調されていることに宗教的・オカルト的なムードを感じて、少なからず拒絶反応を起こした。しかし、今回僕は本書を比較的すんなりと受け入れることができた。「自分を超えた視点から自分を見る(≒自分を超えた“何ものか”と接触しながら生きてゆく)」ことの重要性が説明される際に、アダム・スミス流の「公平な観察者」という概念が用いられていたからであろう(p.164)。*2

「公平な観察者」の視点(真に普遍的な視点)に立つためには、「死」を意識する必要がある、と筆者は説く。この点において、孤独の「リ・ヴィジョニング」は実存主義の哲学と共鳴する。実際、本書におけるハイデッガー哲学の解説はたいへん素晴らしい。学部学生にもハイデッガー哲学の現代的意義が容易に理解できるように書かれている。本書全体で僕がいちばん印象に残った叙述でもあるので、少々長い引用になるが、紹介したい。

人が、自分にとってほんとうに大切な何かと、それに比べればより相対的な重要さしか持たない何かとの違いをハッキリと意識するその具体的な契機には、何があるでしょうか。
私は、それは“死”だと思うのです。
・・・。
このことを最も端的に教えてくれたのが、マルティン・ハイデッガーという哲学者です。・・・ハイデッガーによれば、人は“死に対する先駆的な決意”つまり、自分がいつかは死ぬ、もしかすると明日、いや今日にだって死なないという保証はないのだということをリアルに自覚するならば、その人自身の“本来の可能性”に気づくことができる。つまり、その人は、本来こうありうるはずだという、その姿に立ち返ることができる、というのです。
そしてここが大切な点なのですが、ハイデッガーが言う“本来性”はドイツ語でEigentlichkeit、別の意味として“固有性”という意味もある言葉だ、ということです。
つまりハイデッガーが、人は死へと先駆的に決意して、自分はいつ死ぬかわからない存在なのだということをリアルに自覚するときに自分の本来の可能性に気づく、というとき、それはまた同時に、自分だけの、ユニークな、固有の可能性に気づく、ということを意味してもいるのです。自分が本来そうあるはずの自分になって、何かをなすとき、それは自分という存在にとってきわめてユニークなものであるはずだ、ということです。
・・・死という“人生のゴール地点”に前もって立つことによって、はじめて“人生という時間”をトータルに捕らえることができる。そしてそうすれば、自分にとって本来の可能性、つまり、自分が本来そうあるはずの生き方をしていればそれをなしているはずだ、と思えるものと、そうでないもの、相対的な重要性しか持たないものとの区別がハッキリとしてくる、というのです。
私は、このハイデッガーの考えに大賛成です。(pp.107-9)

自分で自分の人生という作品を作り上げていくためには、世間なみの発想、世間なみの生き方をいったん括弧に入れて、“ひとり”でいる決意をすること、孤独になることが必要である。*3著者は「充実した孤独」の例として、自分の大学院博士課程時代(p.131以下)を挙げているけれども、まったく同じ経験をしている僕としては非常に納得のゆく例であった。確かに、「平日のすいた公園やコーヒーショップ」(p.137)で誰にも邪魔されずに思索に耽ることができるのは、大いなる快感である。病みつきになる、と言ってもよい。本書をきっかけとして、一人でも多くの人に、このような「充実した孤独」の時間を味わってもらいたい。

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

評価:★★★★☆

*1:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20080610

*2:とはいえ、amazon.co.jpのレビューを読むかぎりでは、やはりその宗教臭さを指摘する声もある。

*3:「世間」と「公平な観察者」の関係は、スミス研究史上、相当にやっかいな問題なので、ここでは論じることができない。