乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

城山三郎『部長の大晩年』

正月休みを利用して一気に一日で読み終えた。経済小説の大家が手がけた俳人永田耕衣(1900-97)の評伝である。僕の俳句への造詣はほぼ無に等しく、永田の名前も本書を手に取るまで知らなかった。そんな僕が本書を手に取ったきっかけは、城山作品であり、しかも、僕の生まれ故郷である播州を舞台にしていたからだ。

耕衣は加古川に生まれ育ち、三菱製紙高砂工場に38年間勤務する。利き手の右手に障害を持ちながらも、最終的にナンバー3の部長にまで出世して、55歳で定年退職する。しかし、耕衣の人生の本番は定年後の「余生」にあった。サラリーマン時代から打ち込んでいた俳句にいっそう没頭するようになり、遅まきながら一流の俳人として認められるようになる。1997年、明治・大正・昭和・平成という4つの時代を股にかける97年間の長い生涯を終えた。

「マルマル人間」*1として生きることを持論とした耕衣。「出会いは絶景」を口ぐせとし、それを生涯を通じて経験し続けた耕衣。組織や世間にとらわれずに自由な生き方を貫き通した耕衣。すべてのサラリーマンが彼のような生き方に憧れ、励まされるはずだ。他ならぬ著者の城山がそうであったろう。

誰にも言えるのは、実務への熱中が佳句を生むことがあっても、実務の手抜きからは生まれない、ということ。
耕衣の造語を使うなら、俳句の「深作」は仕事への熱中から来る――というわけであった。
目立たぬ仕事に黙々と携わる人々の中に、耕衣は熱中と律儀の美徳を見る。一人一人を理解しようとする管理職としての耕衣の姿勢が、それを可能にした。
律儀さとは何か。簡単な例が、時間厳守、約束厳守である。晩年に至るまで、耕衣は時間を気にしたし、約束時間に現れぬ客に苛立った。(p.121)

研究・教育・学内行政の相互関係もそうであって欲しいものだ。

随所に引用されている俳句は、詩心の乏しい僕には理解が難しく*2、その意味において、僕は本書を評する資格を本来持ち合わせていない。城山が綴る生まれ故郷の光景の一つ一つに心躍らせた一読者にすぎず、それ以上でも以下でもない。「紙町」なんて地名を二十数年ぶりに思い出した。三菱製紙の社宅が集まっていた地域の名前だ。本書は城山作品の中ではかなり地味で目立たない部類に入るだろうが、僕にとっては個人的思い入れの強い一冊になりそうだ。

部長の大晩年 (新潮文庫)

部長の大晩年 (新潮文庫)

評価:★★★☆☆

*1:個性的な「人間らしい人間」の意。耕衣の造語。

*2:比較的理解しやすい代表句として僕に強い印象を残したのは「朝顔や百たび訪わば母死なむ」と「行けど行けど一頭の牛に他ならず」だろうか。