乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

池田清彦『環境問題のウソ』

2009年2月16日現在、amazon.co.jpには何と40本ものレヴューが本書に対して寄せられている。星5つが12本、4つが13本、3つが4本、2つが3本、1つが8本。毀誉褒貶相半ばする問題作の様相を呈している。しかし、当たり前のことかもしれないが、評する側がもともと本書を何に期待しているかによって、評価それ自体が大きく変わる。それほど様々な読み方をされているとも言える。

著者は構造主義生物学者として広く知られる。本書は、地球温暖化問題・ダイオキシン問題・外来種問題・自然保護問題という4つの問題をとりあげて、「正義」の御旗のもとに隠蔽されている「ウソ(=監督官庁や癒着業者の利権)」を明るみに出そうとする。そして、そうした問題を考えるに際しては、メリットとデメリット(コスト)を比較検討する冷静な議論が必要であることを説いている。

未来の温度が主に太陽の活動で決まり、CO2はマイナーな影響しか及ぼさないのであれば、京都議定書のようなものまで作って、ものすごいコストをかけてCO2をほんのわずか減らすことにどんな意味があるのだろうか。(p.36)

私が本当に言いたいことは、すべての行為にはメリットとデメリットがあり、メリットよりデメリットの方が大きい時は、メリットのお題目がどんな立派でもおやめなさい、という実に単純なことなのだ。(p.77)

・・・ダイオキシンは毒なのだから少なければ少ないほどよいに決まっているという反論をする人が必ずいる。私だってもちろんその通りだと思う。問題はそれにかかるコストがどれくらいかということだ。たとえばプールに入っている細菌の数は少ない方がよいに決まっているが、少々の細菌を飲んでも病気になる人はいない。これならばまず絶対に安全な基準というのがあるとして、その基準をクリアしていれば、細菌の数をその基準の10分の1や100分の1にしてもしなくても安全という点では変わりはない。ましてやそのために莫大なコストがかかるのであれば、無理にコストをかけるのは愚かであろう。
普通のプールに比べ細菌の数が100分の1しかないプールを作ったとしよう。それを維持するコストが莫大で、入場料を1人1万円にしないとやっていけないとして、お客さんが入るかどうか考えてみればよい。民間のプールでれば間違いなく潰れるであろう。ただし、潰れない場合がひとつだけある。法律で地方自治体にこういったプールの設置を義務付けてしまえばよい。
・・・それで得をするのは誰か。プールの管理を請け負っている会社や浄化装置の製造会社あるいは監督官庁の役人である。だから、そういう立場にいる人は“絶対安全プール法”なんて法律ができないかなあと思うだろう。ダイオキシン法は実にこういった類の法律なのだ。(pp.82-4)*1

帯の惹句にある「科学的見地から「正論」を斬る」は、読者に対してミスリーディングであろう。このように書かれてしまうと、読者は本書のいたるところに「科学的見地」を探し求めてしまう。しかし、著者は本書で自分の見解の科学性をさほど強く主張しているわけではない。最初の2つのトピックは著者にとって専門外の分野であり、著者が「科学的見地」にこだわっているなら、そもそもそのようなトピックを選ぶはずがない。また、「伝え聞くところによると」(p.135)などといった表現には科学性のかけらもない。独断や皮肉やあざけりに満ちた表現も目立つ。一般書(新書)であるがゆえに戦略的に採用された(出版社によって採用させられた?)のであろう。専門家向けの本において著者はこのような文体を採用していない。

おそらく著者は、環境問題を素材として、「あたりまえを問いなおす」ことの重要性を訴えているのではないか。与えられた情報を鵜呑みにしないで、ひとまず疑ってみる。多面的に事態を捉えようと努力してみる。逆の立場に立ってみる。誰が得をし損をするのかについて、考えをめぐらせてみる。その際の頭の動かし方を若い世代のために実況中継してくれているのではないか。このような啓蒙的意図が込められた本であるならば、本書は実によくできているように思う。

もちろん、本書に書かれていることのすべてに賛成できるわけではない。

第4章の動物の権利をめぐる議論(pp.125-6)は相当に乱暴でお粗末である。このトピックに関しては倫理学の分野で相当な研究が蓄積されているにもかかわらず、それはほぼ完全に無視されている。同じ自然物とはいえ、犬猫と芋虫では議論の次元がまったく違うのに。*2

また、著者の政府への強い不信感はほとんど生理的なものである。「市場は時に失敗するかもしれないけれども、政府の失敗よりもましである」という信念が、本書のいたるところに論証抜きで隠されているように思われる。「人は欲望を実現するために生きているのだから、他人に迷惑をかけなければ・・・どんな欲望の実現も許容されるべきだ」(p.160)との主張は極端に過ぎて、とても僕の同意できるところではない。*3

最後に一言。「20世紀の温暖化は人為的な原因によるものか自然のサイクルの一端であるのか」という第1章の問題設定は、「20世紀の温暖化」を「1790年代の労働階級の困窮」に差し替えれば、そのままマルサス人口論』の問題設定となる。「原因は人為ではなくて自然」という著者の論法もマルサスのそれとほぼ同じで、予想外の一致がたいへん興味深かったことも、備忘録を兼ねて書き留めておきたい。

環境問題のウソ (ちくまプリマー新書)

環境問題のウソ (ちくまプリマー新書)

評価:★★★★☆

*1:あたかも本書と呼応するかのように、城山三郎『花失せては面白からず』(角川文庫)には、次のような城山さんの言葉が残されている。「私は、審議会というのはぜったい嫌だと受けなかったのに、どうしても断れない事情があって、ある省の審議会に入りました。ある法律の改正をするというのですが、どう考えても、その法律自体が要らない。「余計なことはしないほうがいい。むしろこんな法律はないほうがいい」と言ったんですよ。そしたら皆さん黙っちゃってね(笑)。 / 最後にだんだん聞いていったら、その法律があるために、政府系金融機関から安い金が借りられるというんです。その前提でほとんどの人が根回しがすんでいて、ぼくだけが法律やめたほうがいいと言ったものですから、ぜんぜん議論にならなくて。それで一回行って、あと行かなかったんです。だいたいそういう決め方ですね。法律そのものを議論するんじゃなくて、その法律が要るんだということが前提にあるんです。」(同書pp.128-9)

*2:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20080718

*3:僕はかなりコミュニタリアンであるのに対して、著者はかなりリバータリアンなので、このような対立は不可避であろう。しかし、著者は「同意」ではなく「問題の共有」を求めているのだと、僕は好意的に理解したい。