乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

佐藤健志『本格保守宣言』

もっと高い評価が与えられるべき本、もっと話題になってよい本だと思う。Amazon.co.jpに読者レヴューが3本寄せられているが、いずれも本書にきわめて低い評価しか与えていない。とても残念だ。かれこれ20年近く「近代保守主義の祖」バークの研究をしてきた立場からすれば、本書ほど保守思想の真髄を正しく理解している著作はないように思える。本書に批判的な読者は、拙著『イギリス保守主義の政治経済学』に対しても、「こんなの保守じゃない。保守の名を語った『ニセモノ保守』だ」と批判するかもしれない。裏を返せば、僕の保守思想理解は本書にかなり近い。このレヴューがそういう前提で書かれたものであることをご容赦いただきたい。

まず、「保守」なるものを考える際の出発点が、僕とまったく同じである。著者は政治的な立場としての保守をいったん括弧に入れることから議論を始めている。

・・・保守とは、もともと政治的な立場を指す概念ではない・・・。たとえば『広辞苑』は、この言葉の意味として、「たもち、まもること。正常な状態などを維持すること」をまず挙げ、「機械の保守」という表現を引き合いに出す。つまりは「保守点検」や「保守サービス」という場合の「保守」だが、より普遍的な形で定義するなら、次のようにまとめられよう。
――特定のシステムに関し、年月の経過や環境の変化にかかわらず、望ましいあり方が持続的に成立するように努めること。
・・・機械の「保守サービス」とて、いつでも点検ですむとは限らず、故障の修理や、新しい機種との入れ替えを意味することまである・・・。
保守をめざすことと、改革を志向することは必ずしも矛盾しない。・・・。
保守とはまずもって「正常な状態などを維持すること」だったのだから、それを現状維持と同一視するのは・・・論理的な整合性に欠ける。(pp.18-21)

「保守」的な「改革」があるのなら、その真髄は何か? それは「反急進主義」である。

・・・抜本的な改革を迅速に行えば行うほど、社会のあり方は望ましくなるはずだとする急進主義の姿勢は、(よしんば「保守派」によって唱えられようと)保守の精神とは矛盾する。(pp.21-2)

抜本的改革は「システムを根底より作り直そうとする」性格上、急進主義に陥る危険を常にはらむ。保守主義的な発想からすれば、改革を行う際であっても、既存のシステムはできるだけ活かされるべきなのだ。・・・。
現在必要なのは・・・「抜本」と「急進」の切り離しをはかることではないだろうか。要するに「システムを根底より作り直そうとする」姿勢を、「改革を行う際であっても、既存のシステムをできるだけ活かす」姿勢に近づけてゆくのである。(p.119)

この「抜本」と「急進」の切り離し(p.119, 124, 125, 140, 150, 172, 189)、あるいは、「急進主義の不可能性と抜本的改革の不可避性」(p.125)こそ、著者が擁護に務める保守概念――「本格保守」――の基本テーゼである。このテーゼの意味するところは、「社会システムの改革は、規模とペースの両面について適正範囲を守りつつ進められるべきだ」ということにほかならない。このテーゼこそが「本格保守」と「公式(→ニセモノ)保守」とをわかつ分水嶺となる。

「公式保守」は、市場原理による競争の強化や、自己責任の原理の確立など、自由主義的なシステムの急進的な導入を説く(→グローバリズム)一方で、改憲という抜本的改革を、できるだけ速やかに、つまり急進的に実行するのが望ましいと主張する(→国家主義)。このような「抜本」と「急進」との混同、(グローバリズム国家主義との)トレードオフ関係への無自覚こそが、「公式保守」を特徴づけており、その「立場は、近代的な進歩主義の変種にすぎず、保守本来のあり方からかけ離れている」(p.204)。

「本格保守」は、抜本的改革が急進的改革へと陥ってしまわないように、慎重な配慮を怠らない。迅速さとは焦りの同義語なのだ。また、改革の適正範囲を具体的に見定めるために、「トレードオフの構図」を重視し、必要とあれば妥協や譲歩も厭わない。

・・・本格保守は、容易に「正解」を提示しがたい問題の場合、「トレードオフの構図」を考察することを通じて、べストの選択をなす手がかりとするのだ。
・・・トレードオフは「いかに賢く立ち回ろうと、あちらこちらを同時に立たせることはできない」という前提から出発する。
・・・警戒すべきは、「人間は物事をいくらでも良くできる」とする進歩主義的な発想にとらわれ、「あちらもこちらも全て立つ(=いいところどりが好きにやれる)」かのごとき錯覚に陥ることなのだ。(pp.172-8)

著者が挙げる保守的改革の具体例については、多くの反論が予想される。例えば、憲法問題において、改憲ではなく条文解釈の変更に徹するのが本格保守の立場である、と著者は主張する(pp.118-23)。保守主義の故国であるイギリスの憲法は、憲法典として制定されていない不文憲法判例や慣習の集積)であるから、このような解釈が引き出されるのはむしろ当然であるように僕には思われる。著者は18世紀イギリスの保守思想に対する理解に充実に思索しているのだ。憲法問題以外にも、経済政策のあり方に関して、いくつもの興味深い提言がなされている(173ページ以下)。

バークの保守思想(およびその背景であるフランス革命)についての学識は正確かつ深い。専門家である僕もしばしば感嘆させられた。また、蛇足ながら、このような保守思想理解が著者自身のダイエット経験から引き出されていることも、たいへん興味深かった。

拙著『イギリス保守主義の政治経済学』の保守思想理解が宗教論を本質的に欠いていることに対して、友人の同業者Iさんから「世俗的すぎる嫌いがある」とのコメントを頂戴したことがあるが、本書においても宗教が議論の前面に出てくることはない。また、保守すべき価値それ自体は明示されず、あくまで保守する方法(態度)が議論の対象とされている。どこを取り出しても、本書と拙著は似ている。あまりの符合に僕自身が驚いている。

本格保守宣言 (新潮新書)

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評価:★★★★★