乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

姜尚中『在日』

本書は、在日コリアン二世である著者の自伝であり、著者自身の言葉を借りるならば、「ひとりの「在日」二世の誕生と成長、ためらいと煩悶の歴史」(p.228)を綴ったものである。

この種の本は著者の望むように読まれない場合のほうが多いのではないか。著者自身もそれを懸念してか、「あとがき」において「もっとも望んでいない解釈の例」(p.229)を挙げているが、それにもかかわらず、やはり様々なレヴューで毀誉褒貶が渦巻いているようである。僕自身、つい最近、初めての単著を書き終えたばかりなので(来月末に刊行予定)、それが僕自身の意図をこえてどのように読まれてしまうのか、気になって(怖くて)仕方がない。

僕は社会的発言者としての著者にあまり興味がない。テレビをほとんど見ないので、「知らない」と言ったほうが正確かもしれない。ただ、活字媒体から読み取ることのできる政治学者としての著者の思想には、とても興味を惹かれる。というのも、彼の思想は僕が十数年間にわたって研究してきたエドマンド・バークの思想と重なり合う部分があまりにも多いように感じられるからだ。

アイルランドのダブリンで生まれ育ったバークは、イギリスに渡り、やがて下院議員として歴史にその名を残す大きな成功を収める。しかし、その反面、彼は生涯にわたって論敵から「アイルランド紳士バーク」と攻撃・差別され続けた。彼のアイデンティティアイルランドとイギリスとの間で分裂していた。そんなマージナルマンであるバークが自分自身のアイデンティティの拠りどころを「イギリス帝国」に求めた(帝国を維持するべくアメリカ・アイルランド・インドといった植民地に対するイギリス本国政府の圧政を厳しく批判した)ことは、著者が「在日」というアイデンティティの境界性を積極的に捉えなおそうとして、「東北アジアに生きる」という価値を打ち出した点と重なるような気がしてならない。*1

本書には「アイデンティティ」「分裂」「自分探し」「アンビバレンス」といった言葉が散見される。自分自身の存在の境界性に何とか積極的な意義を見出そうとして精神の放浪を続けるうちに、著者は研究する人生へと進んでいった。その告白は「研究する人生」の原点を力強く伝えているように思われる。少々長くなるが、ぜひとも引用しておきたい。

大学院でのわたしの研究テーマは、マックス・ウェーバーという二十世紀最大の社会科学者の思想史的意味を明らかにすることだった。わたしは、朝鮮半島の歴史でもなければ、日本の歴史でもなく、十九世紀から二十世紀にかけて活躍したドイツの社会科学者に関心を持ったのである。
その理由は、わたしが大学に入って最初に読んだ大塚久雄の『社会科学における人間』(岩波新書)のテーマが、ずっと通奏低音のようにわたしの中に鳴り響いていたからである。
・・・大塚久雄の欧州経済史の実践的な問題意識は、簡単に言うとこういうことである。
アジアでの早熟的な近代化を成し遂げた日本が、なぜあの無謀な戦争に突入し、挙げ句の果てに壊滅的な敗北を喫したのか、その原因を突き詰めていくと日本の近代化のアポリア(難問)に突き当たることになる。それは、明治維新以降の日本が、「アジア的共同体」の残滓を払拭しえないまま、上からの資本蓄積を強行し、国民経済の「近代的・民主的な人間類型」を欠いた近代化に「成功」してしまったことを意味していた。その結果、大塚によると、近代の日本は、「国富」と「民富」、「感覚的欲求」と「内面的な自発性」、権威と自由の分裂を抱えたまま資本主義の「特殊な道」をひた走り、敗戦の巨大な破局を迎えたことになるのである。したがって、大塚にとって日本の敗戦とは、「近代的人間類型」の確立と国民的な生産力の再生に向けた僥倖でもあったわけであり、そのような改革への精神的な転換が戦後改革と戦後民主主義の理念に託されていたのである。
あらましこうした筋書きからなる大塚久雄の実践的な問題意識は、戦時期から敗戦、そして戦後に至る日本の近代化とその問題の診断、さらに処方箋の提示という点でよくできたストーリーに出来上がっている。
だがわたしにそうしても合点がいかなかったのは、「アジア的共同体」や「アジア的人間類型」と「近代的人間類型」との比較・対照であった。いったい「アジア的人間類型」とは何をさすのか。それは、伝統的な「魔術の園」にまどろむ「前近代社会」を意味するのか。とすれば、植民地化された朝鮮半島やその「片割れ」である「在日」は、箸にも棒にもかからない「野蛮な」社会になってしまうのではないか。そんなみすぼらしい「アジア的なもの」を一身に背負わされ、「野蛮」のイメージに苦しんできた「在日」は、いったいどうしたらいいというのだ。わたしの中に反発心が頭をもたげていた。
大塚の学問の中に取り込まれたウェーバーは、果たしてそんなことを言いたいためにあれほどの巨大な学問的断片を残したのか。いや、そうではないはずだ。それならば、自分で確かめてみよう。そう思い立ったのが、わたしがウェーバーにのめりこんでいくきっかけだった。(pp.100-6)

他ならぬ僕自身が、同種の(レベルは低いが)「分裂」を抱えており、その「分裂」に突き動かされるように、彼と同じように研究する人生へと進んでいったので、強い共感を覚えずにはいられなかった。

大学院生時代、それほど明確に意識できていたわけでないが、今になって振り返れば、著者とほとんど同じような問題意識をもって、僕はウェーバー研究ならぬバーク研究へと踏み出したようだ。バーク研究を開始してから十余年、いまだに僕はバークの「分裂」に惹かれ続けている。そして、僕が本書に惹かれるのも、赤裸々に告白される著者の「分裂」的気質が僕の学問的原点を照らし出してくれるからだろう。

在日

在日

評価:★★★★☆

*1:同様の理由で、新井将敬氏の精神の遍歴にも大いに興味を持っている。勉強が不十分なので、これからぜひ時間を見つけて勉強したい。