乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

鷲田清一『京都の平熱』

「京都に復帰したら最初に読もう」と前々から決めていた。良かった。すごく良かった。

哲学者・鷲田清一さん*1が自分の生まれ育った京都の街を(市内中心部を一周する)市バス206系統に乗って案内してくれる。名所やグルメの案内ではない。沿線の「平熱(日常)」について語りながら、「成熟した都市」「品位ある都市」についても語り、京都という都市の未来を展望する。

同一の旋律が幾度となく登場する。京都人は時間感覚・歴史感覚が希薄であること。むしろ、けったいな(新奇な)ものを好むこと。京都の街のいたるところが「あっち(非日常)の世界」へと続く「孔」、「俗」と「聖」の「隙間」で満ち満ちていること。つて(ネットワーク)が何よりモノを言うこと。他者のまなざしにとても敏感であること。等々。

僕は京都生まれでも京都育ちでもないけれども、もはや人生の半分以上を京都で過ごしていて、京都が第二の故郷になっている。京都を愛する気持ちにかけてはネイティブに負けていないつもりだ。そんな似非京都人として言わせてもらうと、鷲田さんが書いていることは何から何まで腑に落ちる。本書を読み進めていて、幾度「ほんまにそうなんよ」と独り言ちたことか。「ほんまに帰ってきて良かった」と実感したことか。

最近わたしは、京都が「歴史都市」だというのは根本的にまちがった判断ではないかと思っている。というか、京都の住民ほど歴史意識が希薄な人種は珍しいのではないかと思っている。
・・・建都何年などという観念的な歴史意識よりも、たとえばお茶屋の格子のなかにブティックがあり、商家の蔵のなかにカフェ・バーがあり、市場の傍らにジャズ喫茶があり、お寺の壁が途切れたところに現代美術のギャラリーがある。そんなおしゃれな猥雑さのほうが、この街には似あっているように思う。(pp.41-2)

このような京都(人)についての語りは、気がつかないうちに、都市論へと展開している。

見て見ぬふりをする。遠ざけながらもその存在を許容する。これこそ成熟した都市がはぐくんだ寛容の精神である。そんなモダンな都市でこそ奇人伝説は生きながらえる。ノイズこそ活力の源だと、そんな無意識の計算ができることが、モダンな都市の条件なのかもしれない。(p.54)

・・・京都市は戦後一貫して、公立学校では制服を指定するのを拒んできた。生徒が、ではない。教育委員会も保護者も、その必要を認めなかった。・・・。
訓練なのである。ひとは人前にどんな身なりで出てゆくべきか、そういうマナーの教育なのである。・・・。
ファッションは、たしかにそういうものである。身体をもったひとが、身体をもったままで他人のひとたちの前に出る、そのときの出で立ちのマナーなのだ。・・・ファッションは、じぶんをデコレートするよりもまず、他人の眼をデコレートすることを先に考える感受性のことである。他人の眼を気にしすぎるちょっと嫌味なこの街は、なるほど、「着倒れ」へとその心持ちを洗練してきたのだった。(pp.142-4)

僕の心にいちばん強い印象を残したのは、以下の一節だ。

格子状のこの街がひとを安心させるのは、この「碁盤の目」のどこに立ってもおなじみの山が見えるからである。三方を山に囲まれたこの街では、山の姿で方向が分かる。どの道に迷いこんでも山の姿を遮ることがないのが格子状の道である。この街では道に迷うということがありえないのである。終の棲家を神戸に移したという京都市民がいても、東京や大阪にそれをもとめるひとがめったにいないのは、神戸なら見上げればかならず北に山が見えて、方位を喪失しないという安心感があるかもしれない・・・。逆に東京という街は、どこからも山が見えない。だから東京に行けば京都で育った者は底知れぬ不安に襲われるのである。京都と同じ「碁盤の目」を札幌でもそうである。これは生理の問題である。(p.163)

確かにその通りなのだ。故郷の姫路では姫路城が、留学先のエディンバラではエディンバラ城が、街のどこからでも見えて、それが大いなる精神的安定を僕にもたらしてくれていた。エディンバラ城を眺めながら大学に通うのはとても楽しかったし、今、大文字山と鴨川を同時に眺めながら通勤できることにこの上ない幸せを感じる。*2

我田引水が過ぎるかもしれないが、鷲田さんが京都に託して語っている都市の思想は、僕が十数年にわたって研究してきた(バークを中心とした)イギリス保守主義思想と重なり合う部分が多いように思われてならない。僕の保守主義観については、まもなく出版される拙著『イギリス保守主義の政治経済学――バークとマルサス――』に譲りたいが、少なくとも僕にとっては、先の引用文中の「おしゃれな猥雑さ」こそ、単なる保守反動ではない漸進的改革論としての近代保守主義を具体的にイメージさせてくれるものなのだ。

似非京都人の僕には「京都の平熱」を語ることはできない。僕が京都に思いをめぐらせる時、常に「微熱」状態なのだ。いつか「京都の微熱」なんてタイトルのエッセイを書いてみたいものだ。

京都の平熱  哲学者の都市案内

京都の平熱 哲学者の都市案内

評価:★★★★★

*1:現在、大阪大学総長でもある。

*2:逆に、札幌出張の際には、毎度のように方角を見失い、宿泊ホテルを見つけられず、迷子になっている。