西部氏は僕の思想形成に最も大きな影響を与えた知識人の一人である。学部学生時代、『経済倫理学序説』『大衆への反逆』『貧困なる過剰』『新・学問論』『生まじめな戯れ』といった著作を貪るように読んだ。そして、大学院の指導教員として西部門下の佐藤光先生を選び、研究対象としてエドマンド・バークに代表される西洋保守思想を選んだ。
しかし、これだけ長い年月にわたって保守思想とつきあっていると、僕なりの保守思想観が必然的に形成されてわけで、自分の専門分野である手前、他の研究者の保守思想観との違いが気になって仕方がない。たとえそれが小さな違いであっても、かえって無視できない。大きな影響を受けてきた西部氏の保守思想観に対してもそうである。
西部氏と僕の保守思想観の(ほとんど唯一と言ってもよい)差異は、保守思想が国家および地域といかなる関係を有するか、という問題をめぐる差異である。西部氏は保守思想の核心として地域より国家との関係を重視している*1が、僕は国家より地域との関係を重視している。この点は僕の保守思想理解の核心に関わるので、簡単には譲ることができない。僕の理解では、本書の第22章「漸進の知恵」は、視覚性という論点を介して、地域景観の問題へと連なるものなのだ。*2第10章「愛着の必然」において、次のように述べられているからこそ、自分の見解への確信が余計に強まる。
・・・保守思想は、愛着を寄せる対象が破壊されることを強く懸念する。
[しかし]・・・愛着するものへの「記憶」が確実に存在していれば、それを復活させるような変化については、それを利益とみなすのが保守思想である。したがって、変化一般を嫌うのが保守思想だというのは間違いである。
・・・愛着という心理的要素に愛着を覚えるということは、行為の目的よりも手段により強い愛着を覚えるということでもある。目的には理想の要素が強く、理想は(手段と比べて)より抽象的、普遍的そして一般的である。それにたいし愛着はより具体的、個別的そして特殊的である。そうならば手段への愛着が・・・優越して当たり前であろう。(pp.57-8)
地域と国家、どちらが具体的・個別的で、どちらが抽象的・普遍的であろうか? 万人に通用する一義的な答えはありえないかもしれない。西部氏自身も、「保守思想は、その根本に地域共同体への愛着を抱懐している。そのため、リージョナリズム(地域主義)に親近感を持ってきた。したがって保守思想が国家にたいしてどういう態度をとるかは、場合によって様々である」(p.152)と述べている。しかし、姫路に生まれ、京都で育ち、エジンバラに第三の故郷としての愛着を感じている僕にとって、答えは明白である。自家撞着が過ぎるだろうか?
ともあれ、昔からそうだが、西部氏の著作からは大きな知的刺激を受ける。体系的であることを拒もうとする保守思想をこれだけ包括的に捉えることのできる思索者は西部氏以外にはほとんど見あたらない気がする。
- 作者: 西部邁
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2002/09
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 32回
- この商品を含むブログ (10件) を見る
評価:★★★★☆