乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

國森康弘『家族を看取る』

「死」と「お金」をテーマとする9期ゼミの最初のテキスト。

本書は、フリーのフォトジャーナリスト(元神戸新聞記者)である著者が、日本海の離島(島根県知夫里(ちぶり)島)で高齢者に手厚いターミナルケアをほどこす養護施設「なごみの里」を取材し、「幸せな死」についての思索をまとめたものである。

著者はそれ以前に世界各地の貧困地域・紛争地域を取材し、飢えや戦禍による「選択余地のない死」「望まない死」を数多く見つめてきた。そのような死ばかりを伝えることに迷いが生じていた著者は、「「幸せな死」はこの世に存在するのか。存在するとすれば一体どこに、どんな形で存在するのだろうか。」(p.12)と自問するに至った。そんな折り、「なごみ里」の存在を知り、取材を重ねるようになった。

「なごみの里」代表の柴田久美子さん(1952- )は、日本マクドナルド社での凄腕キャリアウーマンの時期を経て、40歳を過ぎてから、介護の仕事に携わるようになった。しかし、特別養護老人ホームや有料老人ホームでは、少人数の職員による効率最優先の介護(統制・管理の強化)を余儀なくされ、入所している高齢者本人が望むような最期を迎えることはきわめて難しかった。医療技術の発達による延命至上主義の風潮がそうした困難に拍車をかけた。このような現実に対する疑問が、「なごみの里」創設(2002年)のきっかけとなった。

入所者3人に対し、介護福祉士やヘルパーの資格を持った正規職員に村の有償ボランティア数人を加え、スタッフは10人を超える。「世界で一番手厚い、行き届いた介護」と柴田さんは笑う。(p.42)

「なごみの里」は、「高齢者1人1人が自分の家にいるような感覚で、目一杯甘え、わがままを言える環境づくりを心掛けている」(p.24)。高齢者が安らかな最期を迎えられるためにいちばん大切なのは、看取り師との「1対1」(pp.24, 93, 97)の深い関係である。

何もしないで、ただそばにいる。添い寝する。身体をさする。手を握る。声をかける。「そうだね」と共感する。それだけでいい。そうすることで、死に行く者は死を自然に受け入れるようになり、やがて「仏」のような柔和な表情へと変わっていく。これこそ、逝く人が満足し、残る人も救われる看取りのかたちなのだ。

「1対1」の深い関係を大切にしようとすれば、「福祉はビジネスと相反するという前提」(p.196)を認める必要があるだろう。

大規模な看取り施設の運営話を持ちかけられたりもしたが、「自分が責任を持って同時に見ることができるのは8人くらいまでだから」と断った。(p.45)

上に、「残る人も救われる」と書いた。実は、看取りとは、看取られる側だけでなく看取る側も充足感と感謝で満たされる大切な儀式なのだ(むしろ、本当に救われるのは看取り側である)、というのが本書のもう1つの大切なメッセージである。

死とは一体何なのか――。
死は、代々受け継いできた命のエネルギーを、次の世代に受け渡していく、命のリレー。どれだけ途中苦しんできた人も、遅くとも最後の瞬間には「救われる」ことを数々の死に立ち会い、その表情から教えてもらった。「幸齢者」はその瞬間に「仏様」のような表情で、光に包まれ、先に逝った人たちの世界に招かれていく。いわば、「死はご褒美」なのだ。
果たして、どれだけの人が死をご褒美だと受け止めることができるのか疑問だ。ただ、今まで死を「苦」「汚れ」などと何の根拠もなく全面否定的に捉えて忌み嫌ってきた私たちは、死の世界を実際には知らない以上、この際、「死はご褒美」とする発想についても少なくとも同程度には受け入れてもいいのではないだろうか。看取りの取材を進めていて、そんな気がしてきた。そしてそれは、死を迎える人にとってだけではない。看取る側の人たちにとってもかけがえのない「ご褒美」と言える。(pp.90-1)

僕も父を看取った。父の死に顔があまりにきれいだったので、母が「結婚した時とおんなじ顔してるわ」と感動していた(同じことが208ページにも書いてあった)。本当に救われたのは残された家族のほうなのかも。・・・おそらくそうだろう。そんな気がしてならない。

家族を看取る―心がそばにあればいい (平凡社新書)

家族を看取る―心がそばにあればいい (平凡社新書)

評価:★★★★☆