乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

佐藤真海『夢を跳ぶ』

川北稔『砂糖の世界史』、岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』、遅塚忠躬『フランス革命』など、「岩波ジュニア新書」のラインナップには専門的研究者ですら思わず唸ってしまうような碩学による啓蒙的名著が数多く含まれている。僕自身、その多大な恩恵を受けてきた一人である。

ただ、大学教員として数多くの高校生を(推薦入試・A0入試などで)面接してきた経験から想像して言わせてもらうと、最近の高校生は昔と比べると、知的関心の量的水準において決して劣るわけではないが、その質や方向性を大きく変化させてきている。歴史の流れや一般的原理・規範への興味を減退させつつあるのと呼応して、現在(今)・現場(ここ)に関わる具体的な何かからでないと知的関心を稼働させられない傾向を強めている。つまり、「ジュニア新書」が伝えようとしてきた教養は質的に旧式なものになっていて、現在の高校生の知的関心(それを知的関心と呼ぶべきかどうかという問題もあるが)とマッチしてないのではないか?

以上のようなことを漠然と考えていたものだから、本書を読んでの第一印象は、「岩波ジュニア新書は編集方針を変えてきたな」である。今時の高校生の知的関心の出発点である現在性・現場性にフォーカスを合わせた編集方針が採用されてきているように思われた。

著者は早稲田大学在学中に骨肉腫を患い、右足膝下を切断し、義足生活を余儀なくされた。その著者が北京パラリンピック走り幅跳び日本代表に選ばれるまでの道のりを記している。「夢」「居場所」「自己表現」「文武両道」「出会い」等々、まさしく今の中高生が身近に感じる言葉で本書全体が綴られている。知の権威主義はみじんも見られない。これなら中高生に「ぜひ読んでごらん」と言える。実際、中高生が自分から手に取りたくなるような新書だと思う。新しい「岩波ジュニア新書」の方向性を象徴する一冊であるだろう。

でも、このように深読みされることは著者の望むところでないはず。著者の感情のジェットコースターに素直に共感し、その頑張りに素直に拍手を送り、生きることの素晴らしさを素直に実感できたら、中高生の読書としては十分すぎるくらいだ。

神様はその人に乗り越えられない試練は与えない。(p.174)

未来のことを考えるとワクワクしてしまう。(p.178)

本書の最終章にある言葉である。果たして僕たちはこんな力強い言葉を身近な子どもたちに胸を張って語れるだろうか? 少なくとも教師であればそう語り続けなければならないように思えるし、それができなくなった時には教壇を去ってもらいたい。これは自分への戒めも込めている。

1982年生まれの著者は、年齢的には僕の教え子の2期生と重なっている。実は、かつて2期生のHさんが、(後輩ゼミ生のための)就職活動報告会で、就職活動期間の自分の感情の流れ(アップダウン)を板書にグラフにして示してくれたのだが、それは本書に出てくる「夢先生」の「夢曲線」授業(pp.133-4)とすごくよく似ていた。しかも、Hさんの卒業論文のテーマは「居場所論」だった。これらは世代を同じくする者が分かち持つ感性なのかもしれない。

著者の北京パラリンピックは、椎間板ヘルニアの発症により不本意なものに終わってしまったようで、応援していた僕としても残念だけれども、ブログ*1を読むかぎりでは、著者の視線はすでに未来を向いているようだ。

評価:★★★★☆