乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

松原隆一郎『経済学の名著30』

著者ご本人から賜った。感謝。

経済学史上の名著・代表的理論を解説した本はすでに数多く出版されているが、本書は類書と一線を画す個性を放っている。論壇で現代社会に対する活発な発言を続けてきた著者らしく、経済理論を初学者にもわかりやすく解説する際に用いている具体例が、とにかく秀逸である。

例えば、メンガーの「商品の販売可能性」についての解説はこんな感じだ。

・・・ある財が財になるのはわれわれがその事物と結ぶ「関係」による・・・。
・・・ココアは飲料としてはながらくあまり売れない商品だったが、ポリフェノールが多く含まれるとテレビで報じられると、抗酸化作用を持つ健康食品として瞬く間に重要に火がついた。供給側はココアを飲料と規定していたが、消費者は健康食品としてしか需要していなかったのだ。ココアの販売可能性は、飲料として売ろうとする限り低く、健康食品としてであれば高いのである。
これは、需給の不均衡にかかわる問題でない。実務家としてコンビニエンスストアを創始したセブン・イレブン・ジャパン会長の鈴木敏文は、販売可能性に相当する造語として商品を「売れ筋」と「死に筋」に分け、コンビニは死に筋をカットし売れ筋を完備する業態としている。売れ筋・死に筋は価格とは無関係であり、たとえ価格を下げても死に筋商品が売れ筋に転じることはないという。コンビニは消費者と商品の関係を読み取り、販売可能性を高めようとする流通形態なのである。(pp.160-1)

続いて、ハイエクの市場観についての解説。

「イチゴ」と「大福」はかつて無関係の財であったが、「イチゴ大福」がヒットしてからは補完財となった。かくして分類の慣行にズレが起き、新たな慣行が普及していくのである。市場はそうしたコミュニケーションの場であり、利潤をシグナルとしてそのプロセスを駆動させる。需給の量的な一致を調整するよりも、「どのような知識が社会で評価されるのか」を発見する装置として、市場は重要な役割を果たしているのである。(p.226

センの「潜在能力」についての解説。

・・・インドでは、先進国の人々ならないうることを、所得を保障されてもできない人が多数存在した・・・。所得があるのにそれを適切に使えないことこそが貧者の悲しみではないのか。福祉主義が目標とするような最低所得の保障を実現するだけでは、途上国の人々を貧困から救えない。・・・。
所得を金銭で再分配したとしても、アルコール依存症患者はアルコールを消費するだけだろう。所得水準が伸びても、無駄遣いするだけでは途上国民の生活は向上しない。基本財を平等に保有していても、享受する自由は不平等ということがありうるのだ。食材を供給しても、肝臓が悪い人は生活を改善できない。この場合、健康という潜在能力の欠如こそが、貧困であることの実態である。貧困である人の多くは基本財を与えられても、高齢・障害・病気などの理由から、移動すること・健康に生活すること・地域に参加することなどの自由に変化できないでいる。(pp.285-7)

理論を理論として噛み砕くのではなく(そうした手腕はとりわけ根井雅弘さんが長けているように思われるが)、市井の人々の生活に密着した具体例*1を積極的に用いることで、抽象度の高い理論に新たな生命力が吹き込まれている。

「歴史とは現代と過去との対話」(カー『歴史とは何か』)であるならば、本書ほどそうした「対話」を強く意識して執筆された経済学史入門書はこれまでなかったように思う。「もう少し本格的に勉強してみたい」と思い始めた学部学生が経済学古典の豊饒な知的世界に入門するに際して、いちばん最初に薦めたい一冊である。*2

本書は単なる啓蒙書・解説書ではない。経済と社会の緊張関係、他者との交流(社会的コミュニケーション)――それが支える慣習・制度の安定性――の重要性を説き続け、構造改革が経済の論理によって社会的領域を侵食・解体してしまうことへの警鐘を鳴らし続けてきた著者の思想は、本書の随所に垣間見える。類書では採りあげられることのほうが多いケネー(再生産!)、マルサス(過剰人口!一般的供給過剰!)、ジェヴォンズ限界革命!)らが本書に欠如しているのは、これらの経済学者の理論が著者の表現しようとする思想世界にうまく触れ合わなかったからであろう。*3

告白しておくと、僕の現代社会および経済学史に対する見方・関心は、著者とほぼ同一である。僕の書きたいことを僕以上に明瞭な論理と言葉で表現してくださっているのが松原さんなのである。今年4月にご本人に初めてお会いして、様々なトピック(特に保守主義論・景観論)に関する意見交換を通じて、そうした思いをいっそう強くした。今後のご活躍が楽しみでならない。

経済学の名著30 (ちくま新書)

経済学の名著30 (ちくま新書)

評価:★★★★★

*1:裏表紙の著者紹介で「俗世に関する該博な知識を駆使して」とあるのは、言い得て妙である。

*2:30冊の経済学古典の中で自分の興味・関心を強く引き起こすものがあれば、さっそく図書館か大型書店に行って、その原典を手に取ってもらいたい。一読、二読して理解できる代物ではない。現物を手に取ったかどうかが肝要である。

*3:著者のスミス『国富論』解説は秀逸であり、僕はほぼ全面的な賛意を表明するけれども、9ページという紙幅の制約のため、その秀逸さが全面展開されていないのが残念である。しかし、近著『金融危機はなぜ起きたか?」では、「スミスは、不確実性を引き下げるために、なるべく直接に対面しうる相手との取引を求めて」おり、「直接に対面し、「立場の交換」が想像上で遂行できるような身近な取引に資本を投下すべきだ」(p.106-7)というのがスミスの主張である、とより明確に説かれている。このようなスミス思想の視覚(直接対面)重視の側面は、僕がいちばん新しい論考「組織と仕事」(佐藤方宣編『ビジネス倫理の論じ方』所収)の中でも論じたところである。