乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

正高信男『いじめを許す心理』

4回生(10期生)のTさんがいじめをテーマに卒論を書くというプランを提出していたので*1、指導者としての責任上、少しは勉強しておこうと思い、本書を手に取った。

本書の主題は「なぜ、いじめが成立するのか」のメカニズムを解きほぐすことにある。より具体的に言えば、「学校のクラス内の生徒間で特定の個人に攻撃が向けられたとき、それがどのようにして常習化し、「いじめ関係」として定着化するか」(p.viii)を分析することにある。

まず、筆者は国際調査のデータ比較にもとづいて、日本のいじめの特色を明らかにしようとする。日本ではいじめられっ子にされやすい特性が明瞭でない。誰が被害者にまつり上げげられてもおかしくない。いじめが始まったきっかけは何であっても(普通の行為であっても)かまわない。すぐに大した問題ではなくなってしまう。それにもかかわらずレッテルだけが、クラスに浸透していく。いったん拡がりはじめると、逆にレッテルに基づいて、被害者を色眼鏡でながめるようになる。(pp.21-2)

なぜ日本ではこのような事態が生じてしまうのか? 筆者の実証分析によれば、いじめ関係の成立には、直接の加害者や被害者にとどまらず、それを黙認する傍観者の存在が決定的な役割を果たしている。それでは、なぜ多数の者が傍観(黙認)という対処法を選択してしまうのか?

要するに、いじめの成立を認める過程には、大きく二つの心の働きが関与しているというのが私の考えです。その一つは、本来は暴力行為を良くないと感じていた価値判断が、「親だって、同じ状況下に置かれたならば認める」と信ずることによって、許容へと変質する過程。二番目は、「もうちょっと多くのクラスメートが暴力に批判的になるなら、自分も同調するのだが」と、堂ヶ峠をきめこむ作用だと、思うのです。
私は、いじめがクラス内で定着するためには、両方の種類の心のはたらきが同時に起こることが不可欠だと考えています。(p.103)

子どもの心の中では、「暴力は本来、許されるべきではない」という率直な感想と、「でも自分は暴力を容認している」という認識の不協和が起こっている(認知的不協和)。この不協和を子どもは「みんなも認めているし、親(特に母親)だって認めるはず」という論理を導入することによって解消しようとする(権威による正当化)。

それでは、教師はこのようなメカニズムによって発生するいじめにどのように対処すればよいのか? 筆者は、ほんのわずかな傍観者層のクラス内での比率が、いじめに至る至らないの劇的な差を生む(ほとんど確率の問題に近い)ことを示しつつ、「確率なのですから、永年担任を持たされていれば、そのうち必ず問題のあるクラスを抱えることは、覚悟を決めておく必要が求められます。・・・いじめがクラスで起こることを、教師は恐れてはいけないし、起こっても恥と感ずる必要はないのです」(p.177)と教師を激励し、そして、以下のように提案する。

日本では未だに、いじめられる子どもというのは、いじめられる方にも何かしらの非があるのではないかという考え方が根強く存在しますが、まずそういう可能性はないことが今回の調査から判明しました。教師と親がよく相談して、転校政策を大胆に実施したらどうかと思います。転校を敗北ととらえないことが、肝要でしょう。(p.180)

しかし、これはあくまで「対症療法」である。解決にはほど遠い。とは言え、いじめを根本から解決するような妙案はないに等しい。生徒個々人のあいだの希薄な人間関係を、より濃厚なものにすることが大切だ、という漠然としたことしか言えない。

クラス内の希薄な生徒関係を、密度の濃いものへと変えていくためには、班活動に代表されるように全体をいくつかのサブグループに分け、個々の小集団を単位として、活発にイベントを次々と催していくことも有効でしょう。もっとも、班活動を上手に運営するには、担任の教師に相当な技量が必要といわれています。(p.183)

テーマの性格上、調査が難しく、データ数も多くないため、実証研究としてどれだけ成功しているのかと考えると、いささか心許ない。しかし、20年以上教壇に立っている身としては、本書の内容はきわめて現場の経験・実感にマッチしていたし、教師としての自分を改めて鼓舞してくれたことは間違いない。

いじめを許す心理

いじめを許す心理

評価:★★★★☆

*1:最終的にはテーマを変更したけれども。2013年1月17日記。