乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

森岡孝二『働きすぎの時代』

同僚の森岡さんの新著。今日は脳みそが元気だったので、一日で一気に読み通すことができた。

今や、「世界でもっとも豊かな(はずの)国」アメリカでも、「ゆったりと時間が流れる(はずの)国」イギリスでも、日本に劣らず過重労働や過労死が問題となっている。本書は、現代を「働きすぎの時代」ととらえ、その主要な背景を1980年代以降の資本主義の変化の4つの特徴、「グローバル資本主義」「情報資本主義」「消費資本主義」「フリーター資本主義」に求めている。それぞれに1章ずつをあてて――もちろんこれら4つは相互に密接に関連しあっているが――、豊富な(しかし痛ましい)具体的事例を援用しながら、過重労働の原因に迫っている。

著者は株式会社論の専門家として研究生活をスタートさせた。前任校ではアメリカ経済論を講義されていたと聞いている。以下の一節を読めば、労働時間論が著者の三十数年来の研究と教育の合流地点であることがよくわかる。

アメリカ経済は1970年代に石油危機をやインフレで困難に見舞われ、1980年代にかけて長期の停滞に陥った。1980年代のアメリカでは、日本をはじめとする他の国々との競争の激化に直面して、乗っ取りや大型合併が続いた。この時期からアメリカ企業では経営者が「従業員が多すぎる」「過剰な福利厚生で甘やかされている」などと言い立てるようになった。そして、余分の人員や人件費を削減して「リーン」な(引き締まった)会社に変える新しい経営スタイルがもてはやされるようになり、本格的なダウンサイジングが始まった。それとともに、戦後の労使関係に特徴的であった温情主義的経営――雇用の安定、余暇時間、企業福祉――がかなぐり捨てられ、日本企業も顔負けの猛烈経営が広がってきたのである。
・・・。
M&Aの10年」と言われた1980年代に台頭してきた株価至上主義経営においては、株式市場の評価が企業経営者たちにとっての最大の関心事になり、株主を重視し、株価を高くすることが従来にもまして企業経営の最優先事項となった。そういう経営が強まるにつれて、株式市場は、企業が大規模な人減らしを断行すればコスト削減効果から短期的には企業収益が増大し、株価が上がるので、当然のようにダウンサイジングを歓迎してきた。
・・・株価至上主義経営の台頭が労働条件を悪化させ働きすぎを助長してきた・・・。(pp.32-8)

著者が指摘しているように、たしかに1980年代に資本主義は大きく変容したように思う。イギリスのサッチャーアメリカのレーガン、日本の中曽根は、「小さな政府」を旗印に、いわゆる「新自由主義」政策、民間企業の営利機会を拡大するための規制緩和・民営化・市場化を推し進めてきた。90年代に社民リベラル路線への揺り戻しがあったように見えたが、大きな流れは変わらないまま、その流れは21世紀に入っていっそう加速している。どうして流れは変わらなかったのか?クリントン政権時の労働長官であったライシュの見解がそれを象徴している。著者の説明によれば、

ライシュは、ニュー・エコノミーが雇用を不安定にしたり、労働時間を長くしたり、貧富の差を拡大したりして、家族の崩壊やコミュニティの分解を招くことを問題にしている。またそういうなかで人びとが誠実に生きることが難しくなっていることを憂えている。そして、ニュー・エコノミーがもたらす不公正を緩和し、人びとの生活を守るために採用するべき種々の改善策を提起してもいる。
・・・しかし、彼は規制緩和の時代の労働長官経験者にふさわしく、労働時間についても根本は規制緩和論者であり、法律による労働時間の制限や短縮には、慎重であるというよりは、むしろ消極的でさえある。なぜなら、ライシュは、「すばらしい取引の時代」が提供する、より良い、より速い、より安い製品とサービスはもはや放棄することができないと考えているからであり、また、人びとが豊かな生活を享受するためには、より長く働いてより多く稼ぐ選択肢を排除するような労働時間の短縮は放棄されなければならないと考えているからである。(pp.93-4)

僕はバブル絶頂期の1988年に大学に入学した。バブルと聞いて今の学生は就職活動に苦労しなくてすむバラ色の時代であったかのように想像するかもしれないが、少なくとも僕はすでに暗い未来を予感していた。長時間労働による過労自殺のニュースがちらほら聞こえてきた頃でもあり、「働きすぎの時代」の到来を薄々と感じ取っていたのだ。

果たせるかな、バブル経済は崩壊した。携帯電話が普及し始めたばかりの十数年前、電車の中で、「自分はエリートサラリーマンなんだぞ」とばかりに自慢げに大声で仕事の話にいそしむサラリーマンを数多く見かけた。学生だった僕は、「そんなもん持たされたら、24時間仕事に追い回されて、プライベートがなくなるだけやのに、なんで嬉しそうにしてるんやろう、おもちゃのつもりなんやろか」と心の中で悪態をついた。僕がおぼろげに予見していたダークな未来は、思っていたよりもずっと早く現実のものになってしまった。本書の第2章の表題どおり「家庭も出先も職場になった」。

「働きすぎの時代」を考えることは一種独特な閉塞感を伴う。苦しんでいる我々がその苦しみの作り手でもあるからだ。消費者としての我々が多様化・24時間化・スピード化の利便を求めれば求めるほど、労働者としての我々はそれだけますます消費者の欲望の奴隷となってしまうのだ。誰が敵なのかわからない。ゲリラ戦を戦っているようなものだ。

高度資本主義は物質的には豊かな社会だ。豊かな社会の中で若者は、長い就学(被扶養)期間を過ごすようになり、労働・生産の現場から遠く離れたまま、消費に専念できる特権的地位を与えられるようになった。労働ではなく消費によって自己実現が追及されるようになった。何を消費・購入したのかが、その人のアイデンティティを規定する。選択の自由がアイデンティティの基盤となる。本書の言う「消費競争」(p.84)とは、個人が消費を通じてしか自身のアイデンティティを探求できなくなってしまっている現実の別名なのだ。*1

・・・消費は以前にもまして、他人を真似たり、他人と張り合ったりする点で、ある種のコミュニケーション手段となり、ブランド志向にみられるように、自己のアイデンティティや社会的ステータスを表現するための手段となる。(p.85)

このように考えてみた時、働きすぎにブレーキをかけるには、本書の言うように、政府や企業(経営者)の労働者への配慮を高めることが必要なのは言うまでもないが、それ以上に決定的な問題に思えるのは、果たして我々自身がもう少し「スロー」になれるのか、スローな消費で満足できるのか、アイデンティティを維持できるのか、ということである。消費者としてスピードを求めながら、労働者としてスローでありたいと願うのは、たしかに身勝手な相談だ。しかし、そのような身勝手さの礼讃こそ資本制システムの本質であるとも言える。そもそも消費者とはどこまでも身勝手なものであり、身勝手を許されるからこそ消費は快楽なのではないか?

マルクスが述べているように、「家畜が餌を食うことは家畜自身の喜びであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることに変わりはない」。*2「働きすぎの時代」を考えることは、つまるところ、「情念(欲望)の奴隷」――今やその情念(欲望)大半は資本制システムによって強制的に生み出されているから「資本の奴隷」と言っても本質的には同じだ――としての人間存在(自分自身)を正視することなのだ。

働きすぎの時代 (岩波新書 新赤版 (963))

働きすぎの時代 (岩波新書 新赤版 (963))

評価:★★★★☆

*1:こうした現実については以下の文献が参考になる。宮本みち子『若者が≪社会的弱者≫に転落する』洋泉社広田照幸『教育』岩波書店。とりわけ後者は「グローバリゼーションの中の教育」という困難な問題に真摯な考察を加えており、本書と問題意識の点で重なる部分が多い。

*2:資本論』第1部第7篇第21章「単純再生産」。見田宗介現代社会の理論』岩波新書、36ページに引用されている。