実は1年前に読んでいたのだが、軽く読み流してしまったこともあり、その時は「乱読ノート」で採りあげなかった。しかし、ここ数ヶ月、「心の病気」関連の話題に強い興味を持っており、その絡みで再読したので、レヴューすることにした。
本書は作家北杜夫が奥さんとの40年間にわたる波乱万丈の結婚生活を回顧するエッセイである。2001年に『マンボウ愛妻記』として公刊され、2005年に文庫化されるにあたり改題された。
著者は長年(30代終わり以降)躁鬱病を患っている。
鬱のときは軽い読み物くらいしか受け付けないが、躁病になるとかなり難しい専門書も読みこなせる。それをみんな覚えていれば私も相当に学のある人間になれたかもしれないが、悲しいかな、鬱になるとみんな忘れてしまう。
鬱病のときと躁病のときでは、発散するエネルギーのケタが違う。仕事の量でいえば、鬱のときは月産七枚などという情けない状態になるが、躁になると月産六百枚も書くことになる。そういうときは、家の中でじっとしていられなくなる。(p.138)
私がことさら自分の躁鬱病の話を書いているのは、この病気について広く知ってもらいたいからだ。自分でもコントロールできない感情の激しい起伏は、本人の心がけなどの問題などではなく、心の病気として治療を受ければ何とか日常生活を送れるようになることを示したいのである。そういうことを知らずに、どれほど多くの躁鬱病患者が悩んできたことか。(p.168)
著者は躁鬱病が原因でしばしば蛮行に走ってしまう。躁病期には何事に対しても並外れて活動的で自信満々になる。急に家を増築したこともある。株式投資にのめりこみ、出版社や友人から借金を重ね、破産寸前に追い込まれたこともある。言葉遣いも攻撃的で汚くなる。
・・・肉体的な暴力にもまさる言葉の暴力は、妻をおびえさせた。
それは娘が小学一年生の秋ごろだったが、私の狂気にたまりかねた妻は娘を連れて、電車で三十分ばかり離れたところにある実家に逃げてしまった。娘は公立の小学校でありながら、親の躁病の騒動のために、電車通学をさせられたのである。
家にはお手伝いさんがいたので、私の食事など身の回りのことは何とかなった。こういう状態で、猛スピードで原稿を書き、家の近所をランニングで走り回り、あちこち電話をかけまくっていたのである(p.78)
壮絶な毎日はおしとやかだった奥さんを次第に「悪妻」へと変貌させてゆく。タバコと酒をめぐる攻防では、著者がどんなに知恵をしぼっても、必ず著者の敗北に終わってしまうし、どんなに出版社に頼みこんでも、原稿料が著者の手元に届けられることはない。
妻をこれほど強くしてしまったのも、もとはといえば私の数々の愚行からだった。(p.198)
著者は夫としての威厳を喪失した「駄馬」のような生活を自虐的に綴りながら、本書の最後を「こうしたつまらぬ日々が夫婦であるとは昔の私には分からなかった。二十一世紀になり、七十四歳を迎えようとした今、悟ったことである」(p.210)と結んでいる。不覚にも「ほろり」とさせられるのは、ここに夫婦愛を含む家族愛の本質が見事に描き出されてからであろう。
当たり前のことが当たり前でなくなった時、私たちはようやくその価値の尊さに気づく。失われる前に気づいておきたいものだ。
- 作者: 北杜夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
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