乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

間宮陽介『増補 ケインズとハイエク』

本書はもともと中公新書の一冊として1989年に公刊されたもので、知る人ぞ知る名著でありながら、長らく絶版状態が続いていた。このたび増補改訂され、ちくま学芸文庫の一冊として復刊された。

ケインズハイエクの関係については、「実践家vs理論家」あるいは「経済の計画化の主張者vs自由の擁護者」といった対立図式の中で捉える見方が今も昔も一般的であるが、本書はこうした常識を根底から覆そうとしている。19世紀後半、イギリスでもウィーンでも、市場における投機的活動の比重が高まり、私的善(利益)と公的善(利益)とを結びつけていた社会的文脈(伝統・慣習)は経済の舞台から後退していった。それと並行して自由主義は自由放任主義に取って代わられた。両者はこうした「自由の変容」の意識を共有し、そこに近代西洋文明の危機を見た。

自由主義と自由放任主義はどう違うのか?

自由主義と主義としての自由放任とをはっきり区別しておくことが大切である。・・・アダム・スミスエドマンド・バークも・・・「政府の為すべきこと」と「為すべからざること」、あるいは「国家が自ら進んで公共の英知に従って指揮監督すべきもの」と「国家が能うかぎり干渉を排して個々人の努力に委ねるべきもの」(E・バーク「穀物不足に関する思索と詳論」)の間のどこに線を引くべきかを考える。
さらに自由主義者は、政府の介入すべからざる領域においても個人がある種の制約を受けることをむしろ当然だとみなしている。・・・。
ところが主義としての自由放任は、自由に関する限定をむしろ振り払おうとする。・・・自由放任にとっては、どのような強制であれ、この強制の有無が自由と不自由とを分かつ基準である。(pp.67-9)

ケインズハイエクのような真の自由主義者は、政治が介入すべからざる領域において個人がある程度被る制約・強制を積極的に評価するが、この制約・強制に先述の伝統・慣習が含まれることはもはや説明不要だろう。これこそが人間の無知・無力・不完全さを補うものであり、自由の不可欠な構成要素なのである。したがって、単に強制力が欠如している状態を自由と呼ぶべきではない。努力し志向性をもった存在となった時、はじめて人間は自由であると言えるのだ。

本来の自由、すなわち消極的自由の主張者は、その主張の出発点に一つの前提を置いていた。つまり、人間は全能の神に比べれば無力な存在(ホモ・インスキエンス)であるが、だからといってそのような状態に自足するのではなく、何とかしてそれを克服しようと努めるものだ、という前提である。これは自由主義の公理だと言ってもいい。何でもないようだが、これを欠くと不在の体系としての自由の体系は、姿かたちは似ていても、中味は異質の擬似的自由の体系に変質してしまう。これほどに重要なこの前提は、ふだんは表に現われない。自由を主張し自由のために闘った自由主義者たちは、人間が努力し志向性をもつ存在であることをおそらく当り前のこととしていたのである。何よりも彼ら自身がそのような存在であったから。彼らが自由を要求したのは、時の国家権力の壁が自分の努力行為にとって障壁になると感じたからである。・・・。
・・・人々は自分の部屋の中でぼんやりとしていたいと思う。そのことを他人がとやかく言う筋合はない。しかしそのとき、人々は自由を享受しているのだとは言わない。(pp.207-8)

もちろん市場社会は人々の努力のすべてを斟酌してくれるような甘いシステムではない。徒労に終わるだけの報われない努力は確実に存在する。にもかかわらず(!)目的を持って努力し続けること、自分の限界を克服しようと努めること、そうした努力行為の中に人間の自由は存在する。このような著者の主張は人間存在の本質に肉迫しているように僕には感じられた。

本書が刊行された1989年は、社会主義の崩壊が始まった年であり、自由主義が「勝利」に向かって突き進んでいると誰もが疑いなく信じ始めた年であった。しかし、爾後十余年間、民族紛争は激化し、米主導の新自由主義グローバリズム(その亜種としての我が国における「例外なき規制緩和」論)に対する異議も強まっている。こうした事態を目の当たりにしてもなお我々は自由主義の「勝利」を高らかに宣言することができるのか? ――実は自由主義は「勝利」も「敗北」もしない。自由主義は人間が人間らしく生きるための目標原理である。そして自由主義社会は永遠に実現されることのないユートピアである。しかしその実現を信じて努力し続けるに値するユートピアである。――本書は読者にそう語りかけているのではないだろうか?*1

日常のあらゆる生活領域において新自由主義的な原理が猛威をふるっている今こそ、「自由の変容」という問題の存在をいち早く指摘した本書の先見性は、改めて高く評価されるべきである。十数年ぶりに再読してみたが、やはり文句なしの名著であった。

増補 ケインズとハイエク―“自由”の変容 (ちくま学芸文庫)

増補 ケインズとハイエク―“自由”の変容 (ちくま学芸文庫)

評価:★★★★★

*1:このように紡ぎだされた自由の永久革命論は、著者の丸山真男への関心の高まりと重なっていくように思われる。