乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

クリストファー・ヒッチンス『トマス・ペインの『人間の権利』』

ポプラ社の《名著誕生》シリーズのラインアップの一冊で、マルクスの『資本論』、ダーウィンの『種の起源』に続く第3弾として公刊された。アメリカ独立革命とフランス大革命に関わった政論家トマス・ペインの主著『人間の権利』を、それを生み出した時代背景や著者の個人的エピソードを交えながら紹介している。

本書はマーク・フィルプ『トマス・ペイン―国際派革命知識人の生涯』(の邦訳)とほとんど時を隔てずに公刊された。両方ともペイン思想への入門書として書かれているが、本書は著者がアカデミックな研究者ではなくジャーナリストということもあって、より初学者向けに書かれている。

中山元氏による訳文も毎度のように流麗で、初学者でも立ち止まることなく読み進められる。『人間の権利』については、かつてそのものをレヴューしたことがある*1ので、屋上屋を架すことは控えて、本書の入門書としての評価に限定してコメントしておきたい。

入門書としては詳しすぎず、浅薄すぎず、まずまずのできと言ってよいのではないか。合格点は十分に出せる。ペインの歴史観をバークのそれと比較した件は、非常によくまとまっており、読みごたえがある。民主主義的で急進的な大義を主張する人々が「愛国者」を自称していた事実(p.19)など、痒いところに手が届く説明もある。君主制批判からオズの魔法使いへと著者が想像力を自由に飛翔させている(p.142)のも楽しい。

ただ、問題がないわけではない。原文がそうなっているのか、誤訳なのかはわからないが、首をひねりたくなる表現にしばしば出くわす。

  • マルサス批判で有名なコンドルセ」(p.94)とあるが、これを普通に解釈すれば、「マルサスを批判したことで有名なコンドルセ」という意味になるはずだ。しかし、コンドルセは1794年に死去しており、1798年にデビュー作である『人口論』を出版したマルサスを批判することは不可能である。実際は、マルサスが(『人口論』の中で)コンドルセを批判したわけであるから、「マルサスに批判されたことで有名なコンドルセ」と訳出するのが正しいだろう。
  • 「ペインの同時代の思想家であるヒュームとシャフツベリ」(p.165)とあるのも変だ。どうしてペイン(1737-1809)がヒューム(1711-76)やシャフツベリ(1671-1713)の同時代人と言えるのだろう?
  • 「ロンドンの通信協会」(p.89)とあるのも変で、「ロンドン通信協会」が定番の訳語である。
  • トーリー党員」(p.22, 30, 70, 82, 110)、「ホイッグ党員」(p.48, 110)とあるが、本当に「党員」であったのか? 何をもって「党員」だと認めるのか? 政党としてのトーリーが18世紀中葉に瓦解していた事実を考慮すれば、安易に「党員」という言葉を使用することはできないはずだ。
  • 再三にわたって「バークはカトリック教徒」と記されている(p.110, 123, 138, 154)が、それはバーク研究者によってまだ認定されていないはず。断定調で書かれると、さすがに抵抗を覚える。いったい何を根拠にしているのだろう? これは著者の勇み足である。

中途半端な『理性の時代』の解説(第5章、わずか16ページ)はないほうがよい。これだけでは、ペインがどのような宗教思想を奉じているのか、ほとんど何もわからない。共和主義思想への言及も断片的で、これだけで民主主義思想との異同を理解するのは無理である。それらに言及する代わりに著者の現代的関心を前面に押し出すほうが、読者の理解をいっそう促したのではなかろうか。おそらく著者は、ブッシュ政権下でアメリカの建国の精神が歪曲されていることを憂えて、本書を著したように思われる。小さな政府と反戦を一体的に唱え、削減された軍事費を社会福祉の財源に充当できると考えたペインは、ブッシュとは似ても似つかない。著者は心の底で静かに憤っているはずだ。

フィルプの本(近日中にレヴューする予定)のほうが良質なのは間違いないが、その分、難易度が上がり、読者に要求される前提知識も多くなる。フィルプを読みこなすための、入門書を読む前の入門書として、本書を薦めたい。同じ著者の『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』は好評を博しているようなので、そのうちに読んでみたい。

名著誕生3 トマス・ペインの『人間の権利』

名著誕生3 トマス・ペインの『人間の権利』

評価:★★★☆☆