乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

井上孝代『あの人と和解する』

一人の人間の内部の葛藤、個人と個人の対立やもめごと、集団内での争い、集団と集団の抗争などミクロからマクロまで、さらには国家間の国家と市民社会の関係などメガレベルに至るまで、私たちの人生はさまざまなレベルでの「コンフリクト(=対立、紛争、もめごと、諍い、葛藤)」に満ちあふれている。カウンセリング心理学を専門とする著者は、国際平和学者ヨハン・ガルツゥングに師事し、彼の提唱する紛争解決法「トランセンド法」を、身近な人間関係の葛藤の解決に適用しようとする。「トランセンド法」とは、コンフリクトの解決にあたって、当事者双方の妥協点を調整するのではなく、第三者が両者の考え、言い分を十分に聴き、対話することによって、対立する二者の目標・ゴールを乗り越えたところに新たな解決地点を見出そうとするものである。

数多くのカウンセリング例が紹介されているが、それらのいずれにも共通するのは、表面的な人間関係のトラブルの根底に、自分自身の内面のコンフリクト、すなわち自己肯定感の欠如が隠されている、ということである。心の奥底に抑圧された不安は、他者への不満や怒りという形で噴出する。したがって、今のつらい状況を変えるには、自分自身が変わるしかない。自分を肯定する(=自分に共感する)ことによって、他人に共感することもできる。自分と他者の違いを認め合うことで、和解・癒しへの道が開かれる。

他人と違うことを恐れがちな日本人は、対立を恐れ、無難に周囲と歩調を合わせようとするために、自分の本当の気持ちや要求を見失ってしまいやすい。自分の感情と相手の感情をきちんと分けて考えることが苦手になっている。しかし、日本人は昔からそれが苦手だったわけではない。伝統社会の「寄り合い」のシステムは、何か諍いが起きたとしても、人々が遺恨をもたず平和に暮らしていくための人間関係の知恵であった。今や伝統社会は崩壊し、このような和解のシステムは消滅しつつあるが、それに代わるシステムを新たに構築することは決して不可能ではない、と著者はポジティブに主張する。

夫婦、親子、兄弟、友人、上司と部下(職場)、ご近所づきあいなど豊富な例示によって、私たちは身近な人間関係を根底から捉えなおすきっかけを与えられるだろう。人生がコンフリクトに満ちている以上、生きるとはコンフリクトを乗り越えて和解を探求し続けることである、と言ってよいかもしれない。和解には時間が必要だ。相手の意見にじっくりと耳を傾けることが必要だ。短時間でてっとり早く結論に至ろうとする効率至上主義の価値観、ものごとの白黒をはっきりさせる二元論的な価値観に染まっている私たちは、「聴く」ことの偉大な価値を忘れ、「人間関係に無駄なエネルギーを使いたくない」と言って、自分でも気づかぬうちに消耗している。自分らしくあることを忘れ、社会が求める自己像に合わせ続けるうちに、両者の乖離はストレスとして積もり積もってゆく。そのことの危険性は明らかだろう。

僕は本書を若い人たち、これから社会へ出ようとする大学生に強く薦めたい。友達との諍い、内定先を親に反対されたといった身近な問題が、日中・日韓問題という国際問題と同じ根を持っていることに気づかされるはずだ。国際紛争のようなメガレベルの問題は、私たちの日常生活からあまりにも遠いし、非力な自分がそれに対して何らかの意味ある貢献をなせるようにも思われない。「そんなの関係ない」と考えがちだが、実はものすごく「関係ある」のだ。そういう「気づき」を読み手に与えてくれるという点でも、本書は素晴らしい「社会科学への招待状」だと思う。同じ性格の書物である中野民夫『ファシリテーション革命』*1と併せ読まれることを望む。

あの人と和解する ―仲直りの心理学 (集英社新書)

あの人と和解する ―仲直りの心理学 (集英社新書)

評価:★★★★☆