乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

橋本治『「わからない」という方法』

自分の頭で考える方法を教えるのは難しい。もともと「まなぶ」は「まねぶ」である。したがって、「教える」すなわち「真似をさせる」ということになる。「走る」とか「投げる」であれば、「ほら、こういうふうに」と実演して見本を示すことができるが、「考える」の場合、そういうわけにはいかない。それでは、「自分の頭で考える」ことはどうやって教えられるだろうか? これこそ教師たる者の永遠の課題なのかもしれない。この困難な課題に真正面から挑んだ名著として野矢茂樹『はじめて考えるときのように』があり、僕はこの小さな哲学書をゼミのテキストとして何度も用いるほど愛読してきているが、本書もまたこの困難な課題に果敢に挑み、そして、期待以上の素晴らしい成果を残してくれた。

著者によれば、20世紀は「わかる」を当然とした時代であった。たとえ自分はわからなくても、「どんな問題にも正解がどこかに存在するはずだ」。そうした確信・思い込みを著者は20世紀病と呼ぶ。新興宗教ブームも、ノウハウ本の出版ラッシュも、(おそらく、わからないことがあると考える前にすぐにググってしまう習慣も、)我々が20世紀病に冒されていることの証拠なのである。特に日本は恥の社会であるがゆえに、「わからない=恥」という価値観が抜きがたく確固たるものになってしまった。しかし、21世紀は「わからない」の時代である。もはや正解なんて存在しない。それゆえ、「わからない」を起点する以外にない。「わからない」を方法にする以外にない。「わからない」は「恥ずかしいこと」ではない。「わからないからやらない」ではなく「わからないからやる」のである。

哲学者ではなく文学者(作家)である著者は、さながら志賀直哉の写生文(p.136)のように、自らの意識の流れを丁寧に写生する。「わからない」が「わかった」へと変貌していくプロセスを、実体験――セーターの編み方、美術番組の制作、枕草子の現代語訳など――にもとづいて、丁寧に、くどすぎるくらいに(実際「くどすぎる」「ねちっこい」との感想も多い)説明してくれている。

実は、著者が説く方法は、僕自身が無意識に採用してきた方法でもある。ここまではわかった。しかし、ここから先はわからない。こうした現状をそのまま論文にして発表してしまうと、「こいつは●●●もわかっていない」とばれてしまい、日本社会の尺度に照らすと、「恥」をかく(バカにされる)危険にさらされるわけだが、不思議なことにそうした危険に対する恐怖が昔から僕には希薄である。以下の著者の言葉は、そんな変人の僕を静かに励ましてくれている。

結局のところ、「バカと言われることを顧みない度胸」だけが、20世紀病に冒された日本車気あの膠着を突破するのである。(p.27)

万人向きではないが、はまる人ははまる。病みつきになる。そんな不思議な魅力を湛えた一冊だ。

「わからない」という方法 (集英社新書)

「わからない」という方法 (集英社新書)

評価:★★★★☆