乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

「はてなダイアリー」から「はてなブログ」への引っ越し

更新を停止して6年ほどたちますが、かつて備忘録を兼ねた読書ノート(日記)を「はてなダイアリー」でつけていました。「はてなダイアリー」がサービス終了ということで、せっかく書いた文章が失われてしまうのがもったいない気がしましたので、「はてなブログ」(つまりここ)へ引っ越してきました。

読書ノートを書くのは自分の思考を整理できるとても楽しい作業でしたが、経済学部副学部長職(2010年10月~2012年9月)にある間は、多忙さゆえに更新頻度が激減し、職を解かれた直後に娘が誕生して(2012年10月)、更新に使える自由な時間がさらになくなりました。その状況は6年たっても基本的に変わっておらず、そのため、引っ越しと言っても過去データをインポートしただけです。今のところ更新を再開する予定(余裕)はなく、過去のエントリーの閲覧のみとさせていただきます。ただ、もしかしたら、月末に「今月はこんな本を読みました」という報告の書き込みくらいは行うかもしれません。

振り返ってみると、30代の乱読の蓄積が50代になった今の自分の研究生活を見えない力で支えてくれているような気がしてなりません。

小倉正行『TPPは国を滅ぼす』

読んだ順番の問題にすぎないのかもしれないが、廣宮孝信『TPPが日本を壊す』と中野剛志『TPP亡国論』を読んだ後では本書を読む必要はなかったように思われた。本書に書かれている内容(TPP参加反対の根拠)の大半は先の2冊に書かれており、目新しいところがない。*1新しい知見はほとんど得られなかった。本書のメリットを挙げるならば、TPPをめぐる国会での議論が記録されていることにある。叙述は平易で読みやすいが、これを読むのであれば、先の2冊のほうを読むべきだろう。

TPPは国を滅ぼす (宝島社新書)

TPPは国を滅ぼす (宝島社新書)

評価:★★☆☆☆

*1:ただし「食料主権」についてはやや詳しい叙述がある。

中野雅至『キャリア官僚の仕事力』

タイトル通りの内容。キャリア官僚の仕事力とそれを支える仕事術を元キャリア官僚が解説したもの。

本書の第一のキーワードは「締め切り」。キャリア官僚から学ぶべき最も汎用性の高い仕事術は、スケジュール管理の技術であるように思う。これが「仕事ができる/できない」という評価ポイントの一つであることは、自分の日々の仕事(教育・研究・校務)において、実感するところである。

官僚は雑務を含め、常に大量の仕事を抱えているのが実情だ。日本の公務員の人件費について問題視されることがたびたびあるが、実のところ日本の公務員数は世界的に見て最も少ない。官僚の世界は、慢性的に人手不足の状態なのだ。
そんな状態のなかで、官僚は常に「締め切り」と格闘している。・・・複数の仕事を同時に回すことのできないスケジュール管理の甘い官僚は、「できないヤツ」という烙印を押される。
締め切りを守るために大切なのは、段取りだ。
・・・締め切りを守るポイントは、「逆算」にある。締め切りというゴールとそのときにどういう成果を残さなければならないかを設定したうえで、仕事のプロセスを組み立てていくということだ。(pp.78-80)

官僚の仕事の実態を知るための読み物としても十分に面白い。本書の「締め切り」に次ぐキーワードは「ヤラセ」かも。

キャリア官僚の仕事力 秀才たちの知られざる実態と思考法 (SB新書)

キャリア官僚の仕事力 秀才たちの知られざる実態と思考法 (SB新書)

評価:★★★★☆

吉岡秀子『砂漠で梨をつくる ローソン改革 2940日』

コンビニ業界第二位のローソン。この巨大企業の社長に43歳の新浪が就任したのは2002年のこと。親会社の三菱商事から再建を託された。長年トップダウン方式でやってきて傾きかけたこの会社(ローソンはかつてはダイエーの傘下にあり、創業者である中内功の影響力が絶大だった)を根本から変える――指示待ちでなく「自分で考え、自分で動く」理想の社員像(p.14)を実現する――ために、新浪の奮闘が始まった。本書はその奮闘の記録である。

新浪はメディアへの露出度も比較的高いため、経営者としてはかなり著名な人物であるはずだ。本書の内容の半分くらいはDVD『プロフェッショナル 仕事の流儀 コンビニ経営者 新浪剛史の仕事 さらけ出して 熱く語れ [DVD]』を通じてすでに知っていたが、それでも本書は十分に面白い。まず新浪のどこまでも熱い言葉にしびれる。鼓舞される。男惚れしてしまいそうなほど。

新浪は社長就任当時のローソンを「砂漠だった」と回想している。「いろいろなことを考え、教え、水をたっぷりとまいても、何の芽も出ない砂地のようだった」(p.14)と。そこで彼は自分から社員との距離を縮めようと決めた。現場との密なコミュニケーションを通じて「自分で考え、自分で動く」社員を育成しようとしたのだ。しかし巨大企業であるためコミュニケーションのコストもまた巨大である。その弊害を打破するための様々な工夫・実践が本書で紹介されている。新浪の頭の中がコミュニケーションを密にするアイデアで満ちていることがよくわかる。彼は偉大なコミュニケーターであることを通じて、トップ(リーダー)に必要な資質や行動が何であるかを読者に具体的に教えてくれる。

本書の内容はもちろん以上に尽きるものでない。脱セブンイレブンのためのローソンの差別化戦略とは? 稼ぐことと社会貢献をどのように両立させるか? 読者は本書から多くを学ぶことをできるはずだ。

流通業界の進化を追いかけるのが昔(中高生時代)から大好きな僕にはたまらない一冊だった。やはりコンビニ業界は面白い。日本経済の「今」が見える。なお、著者は関大OGである。

砂漠で梨をつくる ローソン改革 2940日

砂漠で梨をつくる ローソン改革 2940日

評価:★★★★☆

廣宮孝信『TPPが日本を壊す』

TPP(環太平洋パートナーシップ協定)問題を考えるための基本的論点を手際よく整理したたいへん便利な一冊である。タイトルが示すように、筆者は日本のTPP参加に反対の立場だが、その議論は意外に(失礼!)冷静で、好感が持てる。

著者によれば、TPPの内容はFTA自由貿易協定)やEPA経済連携協定)のそれに比してきわめて急進的である。TPPの日本経済への影響は農業に対してだけではなく、ほとんどすべての産業分野に及ぶ。TPP賛成派の出張は、内需と外需との関係や食糧安全保障(食の安全)についての正確な認識を欠いており、TPP参加によるメリットとデメリットの比較衡量も不十分である。したがって、賛成or反対という二者択一的な議論に陥ることはたいへん危険である。TPP問題を考える場合は、内需が期待できない環境で、外需を切実に求めているアメリカ(オバマ大統領)の思惑を決して軽視してはならない。

TPPのデメリットを考えると、なぜFTAEPAではいけないのかという疑問がわいてきます。お互いのデメリットを減らし、なるべく得るものが多くなるよう交渉するFTA/EPAこそ日本が取るべき道ではないのでしょうか。
・・・FTAのメリットは何といっても自国にとって弱い分野を保護しながら交渉できることです。
・・・FTA/EPAは、関税撤廃や貿易手続きの簡素化による経済環境の変化を例外項目という緩衝材を入れることによって、副作用を最小限に抑えた協定なのです。逆にTPPは副作用を一切艦みない劇薬に例えることができます。(pp.66-8)

TPP参加に反対する立場の基本的論点のほぼすべてが本書に出そろっているように思われる。もちろん、本書に書かれている内容を鵜呑みにせず、賛成派の見解と照らし合わせることを怠ってはならないが、それは後日にじっくりと行うことにしたい。

TPPが日本を壊す (扶桑社新書)

TPPが日本を壊す (扶桑社新書)

評価:★★★★☆

小林時三郎『マルサス経済学の方法』

本書を紐解くマルサス研究者なら誰でも、44年前のわが国のマルサス研究の水準の高さに驚嘆するはずだ。他ならぬ自分のその一人である。B6版で240ページ。小著と言ってよい。エッセイ風の軽めの文体。だが、最初から最後のページまで、啓発力に富む議論が次々と展開され、ノックアウトされる。

本書の表題が意味するところは、マルサスの社会科学体系(とりわけ『人口論』と『経済学原理』)を統一的に理解する基本視角としての、「バランス主義」「中庸主義」「比例主義」の考え方である。マルサスの社会発展観、新マルサス主義、短期と長期、セイ法則、マルクスとの対比、ケインズとの対比などの重要テーマが、この視角から明快に解説されている。

これを読まないマルサス研究者は「もぐり」と言ってよいだろう。必読文献。*1

マルサス経済学の方法 (1968年)

マルサス経済学の方法 (1968年)

評価:★★★★★

*1:マルサス人口論綱要』(小林時三郎訳、未来社、1959年)の訳者解説も同様にすごい。併せ読まれるべき。

山中優『ハイエクの政治思想』

畏友山中さんの第一作をこのたび機会あって再読した。

『隷従への道』から『自由の条件』を経て後年の『法・立法・自由』『致命的な思い上がり』にかけてのハイエクの議論を丁寧に読み解き、その力点の変化(義務論から帰結主義へ、帰結主義的義務論から義務論的帰結主義へ、楽観主義から悲観[懐疑]主義へ)をわかりやすく説明している。筆者が強調するのは、ハイエクにおける「市場秩序は人間の自然感情に反する」という認識の高まりである。それゆえにこそ、市場秩序それ自体を維持するための政治権力(社会保障制度、議会改革、等々)の必要性が力説されるようになったのだ。*1

晩年のハイエクを深刻な悲観に追い込んだのは、人間というものは市場の規律からの要請とそれに反逆する自然感情からの本能的欲求との間の矛盾に挟まれた哀れな存在でしかないのだという懐疑的な人間観の深まりに他ならなかったのである。(p.128)

筆者が描き出すこのようなハイエク像は、市場原理への全面的信頼と“国家の退場”を説くネオ・リベラリズムの潮流の中核的位置に彼の「自生的秩序」論を置くような通説的理解を全面的に退ける。そのような理解はハイエクの全体像を過度に単純化するものにほかならない。

ハイエクの自生的秩序論は、“自生的”という言葉から受ける第一印象とは異なって、市場秩序のスムーズな成長を意味するものでもなければ、政治権力の働きを一切排除するものでもなかった。むしろそれは、反市場的な自然感情の存在によって市場秩序が実際にはなかなか出現し得ないことを率直に承認する議論であったと同時に、幸いにも出現できた市場秩序を守るために正しく使われさえするならば、政治権力の行使をむしろ肯定するものだったのである。(p.156)

ハイエクは断じてネオ・リベラリズムの思想家でない。実際、ハイエクの議論を丁寧に追跡すれば理解できるはずだが、民間の投機活動に対する批判はハイエクには見られないものの、それをハイエクの精神に反するものだと見なしても差し支えない(p.197)。

以上が本書の骨子であるが、個人的にいちばん印象に残ったのは、「市場秩序は人間の自然感情に反する」がゆえ、ハイエク的エリートは一般民衆に対して「努力すれば報われる」という信念(嘘、迷信、疑似宗教)を方便的に奨励する必要がある、という論理を筆者が抽出したことである。それを「ハイエクの宗教思想」と呼んでよいのかどうかまではわからないが、たいへん腑に落ちた。

彼自身は信じていないにもかかわらず、たとえある特定の階級イデオロギーとして設計主義的に使われるわけではないとしても、民衆の間での根強い擬人観的な信仰への傾向に配慮しつつ、市場秩序に適合的な迷信を全ての者の利益となる(とハイエクが信じる)市場秩序を守るための道具として、すなわち進化論的な合理性を心得たエリートの用いる“高貴な嘘”として、あたかも庭師が植物を育てる場合のように社会過程の行方を大まかに制御するために利用することについて、ハイエクは少なくともその含みを持たせていたのではないかと筆者には思われるのである。(pp.151-2)

本書の副題は「市場秩序にひそむ人間の苦境」であるが、それを緩和してくれるのが「努力すれば報われる」という信念でなかった場合、人間はその信念をカルト宗教や時代遅れのナショナリズムに代替させてしまうのではないか? こうした僕の疑問に答えるかのように、筆者は以下のように述べて本書を結んでいる。

・・・市場経済・資本主義の自生的普及を説くに当たって、ハイエクが市場に親和的な宗教的規範の重要性を認めていた・・・。
市場において「どうして自分の所得や資産が増減されなければならないのか、どうして自分が一つの職業から他の職業へと転業しなければならないのか、欲しいものを手に入れるためにどうして自分だけこんなに苦労しなけれればならないのか」――こうした問い、すなわち市場における“なぜ”という問いは、やはり人間として、どうしても発せずにはいられない性質のものだろう。確かに一方でハイエクは、そうした問いに明確な答えを見つけることはできないと述べていた。それは各人の腕と運とによって決まるとしか言いようがない、それが複雑現象たる市場の本質である――という冷淡な主張をわれわれに突きつけていたのである。にもかかわらず、そのハイエクが、市場における“なぜ”という問いに答えてくれるものとして、結局は宗教的規範のもつ力に依拠せざるを得なくなったのであった。この事実は、マルクス主義なきあと“宗教の復讐”(ケベル)に揺れる現代において、自由市場経済の今後を考えていく上で、非常に大きな重みを持っているのではないか――筆者にはそのように思われてならないのである。(pp.228-30)

知的刺激満点の快著である。*2

ハイエクの政治思想―市場秩序にひそむ人間の苦境

ハイエクの政治思想―市場秩序にひそむ人間の苦境

評価:★★★★★

*1:ある思想家をトータルに理解しようとするにあたって、その思想の両義性に着目するアプローチに、僕は惹かれやすいようだ。本書はハイエクの自由論の両義性(義務論と帰結主義の併存)に着目している。ヒュームの文明社会把握の両義性に着目する森直人『ヒュームにおける正義と統治』も僕のお気に入りの一冊だ。ほかならぬ僕自身、自著『イギリス保守主義の政治経済学』において、バークの文明社会把握の両義性――森のそれとはニュアンスを異にするが――を強調している。

*2:橋本努氏(北海道大学)による書評はこちら。http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Book%20Review%20on%20Yamanaka%20Masaru.htm ハイエクの専門家だけあって、さすがに読み込みが深い。「もし山中氏の「弱い不適合説」から、「規制緩和慎重論」しか導かれないとすれば、それはハイエク読解として貧困であるだろう」というコメントは、あたかも僕自身の保守主義理解に対するコメントのようで、身が引き締まる。

正高信男『いじめを許す心理』

4回生(10期生)のTさんがいじめをテーマに卒論を書くというプランを提出していたので*1、指導者としての責任上、少しは勉強しておこうと思い、本書を手に取った。

本書の主題は「なぜ、いじめが成立するのか」のメカニズムを解きほぐすことにある。より具体的に言えば、「学校のクラス内の生徒間で特定の個人に攻撃が向けられたとき、それがどのようにして常習化し、「いじめ関係」として定着化するか」(p.viii)を分析することにある。

まず、筆者は国際調査のデータ比較にもとづいて、日本のいじめの特色を明らかにしようとする。日本ではいじめられっ子にされやすい特性が明瞭でない。誰が被害者にまつり上げげられてもおかしくない。いじめが始まったきっかけは何であっても(普通の行為であっても)かまわない。すぐに大した問題ではなくなってしまう。それにもかかわらずレッテルだけが、クラスに浸透していく。いったん拡がりはじめると、逆にレッテルに基づいて、被害者を色眼鏡でながめるようになる。(pp.21-2)

なぜ日本ではこのような事態が生じてしまうのか? 筆者の実証分析によれば、いじめ関係の成立には、直接の加害者や被害者にとどまらず、それを黙認する傍観者の存在が決定的な役割を果たしている。それでは、なぜ多数の者が傍観(黙認)という対処法を選択してしまうのか?

要するに、いじめの成立を認める過程には、大きく二つの心の働きが関与しているというのが私の考えです。その一つは、本来は暴力行為を良くないと感じていた価値判断が、「親だって、同じ状況下に置かれたならば認める」と信ずることによって、許容へと変質する過程。二番目は、「もうちょっと多くのクラスメートが暴力に批判的になるなら、自分も同調するのだが」と、堂ヶ峠をきめこむ作用だと、思うのです。
私は、いじめがクラス内で定着するためには、両方の種類の心のはたらきが同時に起こることが不可欠だと考えています。(p.103)

子どもの心の中では、「暴力は本来、許されるべきではない」という率直な感想と、「でも自分は暴力を容認している」という認識の不協和が起こっている(認知的不協和)。この不協和を子どもは「みんなも認めているし、親(特に母親)だって認めるはず」という論理を導入することによって解消しようとする(権威による正当化)。

それでは、教師はこのようなメカニズムによって発生するいじめにどのように対処すればよいのか? 筆者は、ほんのわずかな傍観者層のクラス内での比率が、いじめに至る至らないの劇的な差を生む(ほとんど確率の問題に近い)ことを示しつつ、「確率なのですから、永年担任を持たされていれば、そのうち必ず問題のあるクラスを抱えることは、覚悟を決めておく必要が求められます。・・・いじめがクラスで起こることを、教師は恐れてはいけないし、起こっても恥と感ずる必要はないのです」(p.177)と教師を激励し、そして、以下のように提案する。

日本では未だに、いじめられる子どもというのは、いじめられる方にも何かしらの非があるのではないかという考え方が根強く存在しますが、まずそういう可能性はないことが今回の調査から判明しました。教師と親がよく相談して、転校政策を大胆に実施したらどうかと思います。転校を敗北ととらえないことが、肝要でしょう。(p.180)

しかし、これはあくまで「対症療法」である。解決にはほど遠い。とは言え、いじめを根本から解決するような妙案はないに等しい。生徒個々人のあいだの希薄な人間関係を、より濃厚なものにすることが大切だ、という漠然としたことしか言えない。

クラス内の希薄な生徒関係を、密度の濃いものへと変えていくためには、班活動に代表されるように全体をいくつかのサブグループに分け、個々の小集団を単位として、活発にイベントを次々と催していくことも有効でしょう。もっとも、班活動を上手に運営するには、担任の教師に相当な技量が必要といわれています。(p.183)

テーマの性格上、調査が難しく、データ数も多くないため、実証研究としてどれだけ成功しているのかと考えると、いささか心許ない。しかし、20年以上教壇に立っている身としては、本書の内容はきわめて現場の経験・実感にマッチしていたし、教師としての自分を改めて鼓舞してくれたことは間違いない。

いじめを許す心理

いじめを許す心理

評価:★★★★☆

*1:最終的にはテーマを変更したけれども。2013年1月17日記。

宇都宮浄人『鉄道復権』

欧州では、この二十年来、自動車に交通シェアを奪われてきた鉄道が見直され、高速鉄道の導入やLRT(次世代型路面電車)の拡大などによって大いなる復権をとげている。他方、日本の鉄道は、赤字のローカル線が次々と廃止されていることに象徴されるように、ジリ貧状態に陥っている。この違いはどこに起因するのか? 本書は、欧州の事例に学びながら、日本の交通政策の今後のあり方を展望している。

欧州は自動車と鉄道のすみわけと共存によって人間にも環境にもやさしいまちづくりに成功した。そのポイントは、鉄道を下水道や道路などと同じ都市のインフラと見なし、地域の公的な財源によって支えている点にあるが、その背景には「交通権」(pp.62, 172)という考え方、つまり、移動手段の整備はシビルミニマムであるという考え方がある。また、鉄道の運行とインフラを分離する「上下分離」、民間事業者の誰もが運行サービスに入札できるようにする「オープンアクセス」という考え方を採り入れることによって(pp.58-9)、民間事業者による効率性を一定程度取り込むことにも成功した。

他方、日本では、公共交通といえども「独立採算制」の考え方が基本にある。そのために、赤字ローカル線は廃止を余儀なくされている。しかし、これはよく考えてみればおかしな考え方である。筆者は、鉄道を都市と都市を結ぶ「水平のエレベータ」(p.195)になぞらえて、「百貨店のエレベータも、街の動く歩道も、いちいち料金を徴収しないわけだが、それはなぜか? その考え方がなぜ鉄道に応用できないのか?」と読者に問う。百貨店のエスカレータやエレベータが有料なら、百貨店の利用客は激減するはずだ。エスカレータやエレベータを動かすコストは、独立採算ではなく百貨店全体の採算の中に位置づけられている。そうである以上、鉄道のコストも(環境などへの外部効果を含めた)都市全体の採算の中に位置づけられるべきである。このように、都市のインフラとしての鉄道を「独立採算制」の考え方で評価しようとすることの愚を筆者は説くのである。

このような愚に私たち日本人が囚われてしまっているのはなぜか? それは、逆説的であるが、日本の鉄道が世界でも稀に見る成功を収めたことに起因する。私たち日本人は過去の成功体験ゆえに鉄道事業で「黒字」を出すことを当然視するようになってしまったのだ。そのことが今日の日本の鉄道のジリ貧を引き起こしている。筆者は本書を次のように結んでいる。きわめて説得力に富む主張だと僕には思われた。

本書では、欧州の事例を引き合いに日本の問題点を浮き彫りにしてきたが、筆者は、欧州との違いが生じた背景に、何か日本特有の事情があるとは考えていない。日本の基幹産業が自動車産業であることが、鉄道の軽視につながっているかのような見解もあるが、先にみたとおり、自動車産業が発達しているドイツでも鉄道に公費をあれだけ投入している。あるいは、日本と欧米の民族性や民度の違いを指摘する向きもあるが、これとて、「欧米」とひと括りにするのはあまりに乱暴な議論であろう。そもそも日本人に「共助」や「公助」の気持ちがないとも思わない。 唯一の違いは、日本の鉄道が、20世紀、鉄道事業者の積極的な投資と必死の努力によって、先進国の中でも稀に見る成功を達成したことである。この成功によって、鉄道は単体で採算が合うものという「常識」が創られ、総合的なまちづくり・地域政策の中に鉄道が位置づけられることもなくなった。・・・。
・・・たとえ鉄道単体の事業収支が見合わないものであっても、高齢化・人口減少・デフレ経済という事態に直面する日本において、エネルギーを浪費せず、環境効率が良く、しかも老若男女の社会参加を促すことのできる鉄道の価値は計り知れない。
過去の成功物語に囚われず、時代の変化を読み取り、目先の収支ではなく長期的な視野で物事を解決していけるかどうか。この点こそが、日本が豊かな成熟社会へ転換して行くうえで、一つの重要な鍵であるように思う。(pp.226-7)

日本の成功事例――大阪モノレール和歌山電鐵(猫のたま駅長)、富山ライトレール――も紹介されている。読みものとしても楽しい。

鉄道復権―自動車社会からの「大逆流」 (新潮選書)

鉄道復権―自動車社会からの「大逆流」 (新潮選書)

評価:★★★★☆

池田信夫『ハイエク 知識社会の自由主義』

ブログ記事の(過激な?)オピニオンで話題の著者だが、その著作物を読むのは今回が初めてである。なぜか今まで機会がなかった。

著者の思想的な立ち位置をほとんど知らないので偏見なしで読むことができたが、結論としては、ハイエク思想の入門書としてはかなり良い線を言っているように思う。主要著作・論文やキー概念の解説はおおむねきちんと押さえられている。ハイエク思想の発展史を彼の「制度設計」(pp.78-9, 133-4, 178-9, 189-90)についての考え方の変化と関連づけて手際よく解説してくれていることは、たいへんありがたい。*1ポパーケインズフリードマンサッチャーといったハイエクの周辺の人物たちへの目配りも怠りない。

ただ、新書(しかもかなり薄手)という紙幅の制約もあって、詰め込みすぎの感は否めない。第三章の「社会主義との闘い」、第四章「自律分散の思想」、(インターネットとの関連に言及した)「おわりに」の後半部分ががやや読みづらかった。もっとも、これらのトピックについての僕の予備知識が乏しいだけなのかもしれない。

ハイエク保守主義者か」(pp.101-4)という問題は、目下僕が取り組んでいる問題でもあり、本書の中で唯一批判的に読んだ箇所である。この問題についての僕なりの解答は、後日、論文として発表する予定である。

疑問が一つ。フランク・ナイトは「オーストラリア学派の経済学者」(p.48)で正しいのだろうか?

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

評価:★★★☆☆

*1:おそらく元ネタは、巻末の読書ガイドにも挙がっている、山中優『ハイエクの政治思想』なのだろう。http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20120817

渡部昇一『自由をいかに守るか ハイエクを読み直す』

非専門家(英文学者・・・と言うよりは保守派の評論家or何でも屋?)によるハイエク『隷従への道』への入門書(コメンタール)。本書の評価は難しい。なるほど『隷従への道』という書物のエッセンスは表現できているかもしれない。

ハイエクがいいたかったのは・・・自由市場に政府が干渉すると結局人間の自由が根こそぎ失われるということなのである。(p.4)

結局、われわれには二つの道しかないとハイエクはいいます。それは個人を超えた非人格的な諸力に身を任せる道――自由主義経済ということです――と、もう一つは絶対権力を振るう人に身を任せる全体主義の道です。二番目の道が駄目なことはソ連の崩壊が示してくれました。だから、われわれには選択肢が一つしかないということです。(p.307)

しかし、ハイエク思想の専門書をそれなりに読んでいる身としては、本書は読者をミスリードしそうで怖い。本書を読んでハイエク思想のエッセンスをつかんだ気になられては困るのだ。ハイエクほど二分法的思考を頑なに拒んだ思想家はいないのに、本書が描き出すハイエクは強烈な二者択一を読者に強いている。ここに僕は大きな違和感を覚える。ハイエクの思考はこんなに単純なのか? ハイエク思想を『隷従への道』で代表させてよいのか? 僕の答えは「NO」である。

『隷従への道』はハイエクLSE教授時代の1944年(第二次世界大戦中)に公刊された。もともとイギリス国内向けの啓蒙書として書かれたものであったが、本国のイギリス以上にアメリカで大成功を収め、ハイエクが世界的に著名な政治哲学者・社会理論家になる契機となった。しかし、この時点のハイエクは、イギリス的な「自由主義」とドイツ的な「集産主義(設計主義)」を二項対立的に対置しつつ、社会主義全体主義イデオロギー的共通性を指摘して批判するという論法をとっており、その反射として「自由主義」の利点や特性を述べるにとどまっている。ハイエク自由主義思想が十全に展開されるのは、やはり後年の主著『自由の条件』(1960)および『法と立法と自由』(1973、1976、1979)まで待たねばならない。それらとの関連について沈黙している本書は、ハイエク思想の入門書としての資格を欠く。やはり素人の著作であると評価せざるをえない。

「あとがき」に書かれている著者と西山千明氏(『隷従への道』の訳者)との諍いも、読者にとっては興ざめ以外の何ものでもない。私憤を文章化されてはたまらない。読後感の何とも良くない書物である。

自由をいかに守るか―ハイエクを読み直す (PHP新書 492)

自由をいかに守るか―ハイエクを読み直す (PHP新書 492)

評価:★☆☆☆☆

和田秀樹『「すぐれた考え方」入門』

第3章が「「複数の原因」を考える」と題されていたので、「マルサスの経済学方法論(特に複合原因論)の研究に使えるかも」と期待して本書を手に取ったのだが、残念ながら期待外れだった。その話題は本書にほとんど登場していない。また、著書を量産する著者だけあって、(仕方ないとは思うが、)同じネタの使い回しが散見される。メランコ人間とシゾフレ人間に関する件(p.71以下)は、先頃読み終えたばかりの『なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか』にも登場していたこともあり、「またこの話か」とやや食傷気味の感は否めない。

しかし、動機理論の簡便なまとめ(pp.41-5)はかなり勉強になったし、愛国心の新しい見方についての件(pp.19-20, 179-82)も、僕の専門領域に引きつけるなら、急進派牧師リチャード・プライスの演説『祖国愛について』(1789年)に通じるところがあって、たいへん興味深かった。

著者の政策提言は、地位と報酬を切り離して高齢者を75歳まで雇用すべきである(p.33-7)とか、凶悪な性犯罪者に対して強制的なホルモン投与(性欲減退)や陰茎切断手術もやむをえない(pp.142-3)とか、かなり過激である。ディベートのテーマに採用して学生に議論させると面白いかもしれない。

著者は、高齢者を専門とする精神科医だけに、高齢者雇用との関係から、雇用問題全般についても積極的に発言している。以下に引用する一節*1には僕自身も大いに啓発された。

企業のリストラの効用について、私はどちらかというと懐疑的である。
むしろ、今ではすっかり悪者となったが、かねてから雇用を保証してきた「終身雇用」にも、いい点はたくさんあると考えている。とくに経済全体の視点から見ると、リストラはプラスよりマイナスの面が大きい。
たとえば、製造業は、円高の際に何度となく合理化をすすめたため、実際の売上高に占める人件費の比率はそれほど高くはない。高くても10%前後とされている。要するに、人件費を半分に減らすほどのかなり大胆なリストラをしても、ぜいぜい売上高の5%くらいしか経費のカットはできないのだ。(p.38)

著者はフィンランドの国際競争力と(その基盤である)教育を終始ほめたたえているけれども、フィンランドが徴兵制採用国である事実にはまったく触れていない。なぜ? フィンランドの一側面しか描かないのでは、本書の趣旨に背いているような気がするのだが。小国のメリットとデメリットは同じコインの表と裏であって、切り離すことはできないように思う。

評価:★★☆☆☆

*1:他の著書で使い回されているネタのようだが。

産経新聞取材班『総括せよ!さらば革命的世代』

学生運動、とりわけ1968〜9年に最盛期を迎えた全共闘運動には、昔から強い関心を持っている。

理由はいろいろだが、第1には、自分が1968年生まれであることが大きい。自分が生まれた頃に起こった出来事は、たとえ記憶に残っていなくても、その時代の空気を吸って育ったという揺るぎない事実があるために、生まれる前に起こった出来事よりも親近感を覚えてしまう。文化大革命に強い関心を持っているのも、同じ理由からだ。*1

第2には、自分の教わった先生が、なぜか皆おしなべて、この時代に学生生活を送った世代の方々だったからだろう。自分の直接の恩師であるT中先生・S藤先生はともに1949年生まれ。中学・高校時代に学ぶことへの興味をかき立ててくださった世界史のH田先生、浪人時代に英語を教わった予備校講師O先生も全共闘世代だ。H田先生は授業中に学生運動の話をよくしてくださった(面白かった!)し、O先生にいたっては、ご本人が本書の51ページに登場されている。僕にとってバブル経済や冷戦終結に相当する経験は、先生方にとって全共闘運動であったはず。自分に多大な影響を及ぼしてくださった先生方の原体験を少しでも追体験したい。先生方を人間としてもっと深く知りたいのだ。

第3には、自分が大学の教師になってしまったからだろう。ほとんど毎日、何らかの形で学生と接しているわけだが、「昔の学生と比べて何が同じで何が違っているのだろう?」と日々考えずにはいられない。サブタイトル通り、40年前のキャンパスの姿を知ることで、今の学生についてもっと深く知りたいのだ。

京都に出てきて最初に借りたアパートが、京大熊野寮のすぐ近くだったことも、案外大きな影響力を及ぼしたかもしれない。熊野寮は京大の学生運動の拠点の1つだった。寮の外壁には、派手なゲバ文字で書かれた政治的スローガンが掲げられていた。それを毎日目にしていた。

本書は産経新聞の連載記事を書籍化したものである。比較的若い世代(30代後半〜40代前半、僕と同世代)に属する記者が全共闘世代に対して行ったインタビューがもとになっている。重信房子ら、全共闘運動のリーダーだった当事者(有名人)が多数登場しているが、それが本書の「売り」なのではない。本書の「売り」は、末端の「兵士」として現場の最前線で活動していた人たちに対しても、また、全共闘運動の「敵」であった警察関係者や右翼に対しても、丁寧にインタビューを試みることで、全共闘運動の時代をできるだけ客観的に描き出そうと試みている点にあると言える。こうした編集方針ゆえに、本書はたいへん読みごたえがあり、僕の関心に見事に応えてくれる内容であった。

「機動隊員が見た許せぬ光景」(pp.70〜84)は特に読みごたえがあった。いちばん印象に残ったのは、やはり、わが母校・大阪市大についての記述である。

1969年10月4日、大阪市住吉区大阪市立大学。1月の東大安田講堂攻防戦から約9カ月。各地に広がった全共闘と呼ばれる学生たちの反乱はとどまることを知らず、この日朝、全国の公立大で唯一「紛争重症校」と呼ばれた市大当局からも、大阪府警本部に機動隊の突入が要請された。
「あいつらと僕らはほとんど同じ世代。こちら側にすれば、親のすねをかじって好き放題しやがってという思いは、確かにあった」
この日、最前線でバリケードに突入した元府警機動隊員の宮崎二郎さん(66)=仮名=は振り返る。・・・。
戦後間もなく生まれたいわゆる団塊世代は約800万人。大学全入時代といわれる現在とは異なり、この世代が18歳になった60年代後半の大学進学率は15%ほどだった。「金の卵」として地方から集団就職した人や、高卒で社会に出た人が圧倒的に多く、大学進学できる家庭環境は「裕福さ」の証左でもあった。
・・・。
学生たちに一定の“理解”を示した宮崎さんですら、いまだ許せない光景があるという。バリケード内の片隅で、図書館の本を燃やした形跡を見つけたときだ。季節は秋。夜は冷え込み、籠城生活もつらかったのかもしれないが、学生たちが本を燃やして暖を取ったことに無性に腹が立った。
「われわれだって社会に不満がなかったわけじゃない。ただ、この社会には勉強したくてもできないやつだってたくさんいたんや。寒さくらい我慢できない連中が、何が闘争だ、何が革命だ。甘ったれるのもいいかげんにしろと怒鳴りつけたかった。」(pp.70-4)

炎上する時計台に突入する機動隊員たちの写真(1969年10月)がこの記事に添えられている。その時計台は、自分が学生時代に見慣れた時計台であるだけに、余計にショッキングである。本当にあの場所で、そんな事件があったのか・・・と。

勤務する関西大の名前も、当然のことながら、記事に登場していた。

「学問の自由」「表現の自由」を保障する言葉だったはずの大学自治や学生自治。それはもはや、キャンパスから消えつつあるのだろうか。
関西大学では08年5月、キャンパスで大麻を密売して大麻取締法違反で逮捕された学生が大阪府警の調べに「大学の中なら自治が保障されていて警察が来ないので安全と思った」と供述している。
関西大のある教員は「学生の中では大学自治という言葉は死語に近い」と話し、さらにこう続けた。
「学生は特にこの10年で、ずいぶんと様変わりした。授業の出席率は高くても消極的な学生が多い。ダブルスクールなど学外活動の参加も増えているためか、大学への帰属意識も薄くなっている」(pp.194-5)

この記事の内容を否定するつもりはない。しかし、経済学部は関西大で唯一自治会が存続している学部である。教員が学生に自治を教えるというのも変な話だが、大学が大学であるためには、そういう教員側の努力も必要なのではないか。学生が自らを「生徒」と呼ぶことが普通になりつつある時代だからこそ、学生に学生としての健全なプライドを涵養する必要が高まっているのではないか。

最後に、あえて説明するまでもないことかもしれないが、タイトルにもある「総括」とは、全共闘時代を象徴するキーワードである。もともとは「物事を一つにまとめ、締めくくること」を意味する言葉だが、そこから「左翼運動において、闘争の成果や反省点を明らかすること」という派生的な意味が生じ、それがさらに転じて、「真の革命戦士となるべく反省を促すためのリンチ殺人」を意味するようになった。本書のタイトルが示すように、記者たちは、かつて「総括」を叫んでいた全共闘世代の大半が、過去の自分に目を閉ざし、総括を意図的に避けていることに対して、その自己欺瞞と卑怯さに対して、静かに苛立っている。彼ら(「僕ら」と言うべきかもしれないが)の苛立っている姿は、果たして全共闘世代の目にどのように映っているのだろうか?

総括せよ! さらば革命的世代 40年前、キャンパスで何があったか

総括せよ! さらば革命的世代 40年前、キャンパスで何があったか

評価:★★★★☆

J. S. ミル『ミル自伝』

ジョン・ステュアート・ ミル(1806-73)は、19世紀イギリスの代表的思想家。百科全書的にあらゆる分野の知識に通暁した「普遍的知識人」として、『論理学体系』『経済学原理』『自由論』『功利主義論』『代議制統治論』『女性の隷属』などの多くの著作を残し、改革派のオピニオン・リーダーとして(晩年には下院議員としても)活躍した。

本書はミルが自らの人生を最晩年に回顧した自伝であり、自伝文学の白眉として長く称えられている。父ジェームズ・ミルによる早期の英才教育、青春期に訪れた「精神の一大危機」、(のちに妻となる)7歳年上の既婚女性ハリエットとのロマンスなどの興味深いエピソードに彩られながら、ミルの精神の発展が率直な筆致で綴られている。

この村井章子氏による新訳は朱牟田夏雄氏による旧訳(岩波文庫版)より格段に読みやすい。解説も訳者あとがきもなく、訳注もほとんどないことから、読みやすさを徹底的に追求した新訳であるように思われる。

このエントリの日付は2010年11月になっているが、実際に書いているのは2011年3月。一度通読してから、このエントリを書くために再読したところ、多くの新しい発見があって、そこでさらに読み直したら、さらにたくさんの新しい発見があって・・・という始末で、なかなか書き始められなかった。まさしく、このように読むたびに新しい発見があることこそ、名著の名著たるゆえん。

本書を読む誰もが強く印象づけられるのは、ミルが個人の利益ではなく、公共の利益を追求していたこと、多数派の声以上に少数派の声を尊重しようとしていたことだろう。これら以外に、僕自身の研究上の関心から、強く印象に残ったことを箇条書きで挙げておく。

  • 父ミルの『政治論』の婦人参政権への反対論は、バーク流の実質的代表の理論にもとづく(p.89)
  • ミルはベンサム『裁判における証拠の原理』を彼の思想の核心が展開されている作品として高く評価している(p.98)
  • ミルは政治家チャールズ・ジェームズ・フォックス(フランス革命期の急進派ウィッグの領袖)の政治的自由主義の限界を認識している(p.146)
  • ミルは父を「最後の18世紀人」と評価する(p.176)
  • ミルは「前提」「所与の条件」(の可変性)に着目することを重視している(p.143, 155, 214)

なお、背表紙に「ベンサムリカード、ヒューム等と付き合い、同時代の社会思想のみならず、明治以来の日本にも大きな影響を与えた思想家による自伝の古典が、格段に読みやすい新訳で登場」とあるが、ミスリーディングな表記である。このヒュームは哲学者・歴史家のデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)ではなく、政治家のジョゼフ・ヒューム(1777-1855)を指す。

ミル自伝 (大人の本棚)

ミル自伝 (大人の本棚)

評価:★★★★★