乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

小島寛之『完全独習 統計学入門』

すでにレヴューした飯田泰之『考える技術としての統計学*1で絶賛されていたので読んでみることにした。

タイトルに偽りなし。これ以上望みようがないほど丁寧に説明がなされているので、独力で読み進めることができる。統計学という学問分野の性格上、数字と無縁でありえないけれども、用いられている数学は中学までの数学(加減乗除とルート計算のみ)である。*2しかも、独習できるよう、穴埋め式の簡単な練習問題が各章末に付されており、たいへん親切なつくりになっている。統計学の入門的トピックのうち、通常は後半に登場する回帰分析・時系列分析を欠いて、検定・区間推定で本書は終わっている。そこだけが残念であるが、それを除けば、わかりやすさの点で最高のテキストであると言えよう。

著者は、回帰分析・時系列分析を欠如という犠牲を払ってでも、統計学という学問分野のエッセンス――「統計学のココロ」――をつかみとり、初学者に伝えようとしている。そのため、本書では標準偏差の解説に相当な紙幅が割かれている。

筆者は、「統計学にとって最も重要な道具は標準偏差である」と理解していますが、多くの統計学の教科書では定義と計算方法を説明する程度で流していってしまいます。それでは、学習者は「標準偏差とはなんぞや」ということを「体でわかる」ことができません。
しかし、標準偏差のことを十分に体感していないと、その先に展開される正規分布カイ二乗分布やt分布を利用した推測統計の方法論に出合ったとき、いったいそれが何をやっているのかをうまく飲み込むことができなくなります。それで多くの人が統計学に挫折してしまうのだと思うのです。
そこで本書では、これでもか、というくらいに、標準偏差のことをあの手この手で解説しています。標準偏差にこれほどのページ数をさいている教科書はほかにないのではないか、という自負を持っています。(p.10)

確かに著者の標準偏差の説明はすばらしい。たった一つの道具でこんなにもたくさんの事象を説明できることにも感動した。わかることの素晴らしさを満喫させてもらった。

さらに言えば、本書が僕にとって心地よかったのは、「この計算によって自分はいったい何をしているのか」と、計算式の意味をそのたびごとに自問してくれていることである。僕も身に覚えがあるのだが、中学や高校の数学の授業がわからなくなった時というのは、たいていの場合、公式を丸暗記して式を変形しているだけなのだ。中で自分が何をしているのかわからなくなっている。道に迷ってしまっている。著者はかつての僕のような学生を念頭に置いて本書を執筆しているかのようだ。

何ごとであれ僕はぼんやりとした理解で先へ先へと進むことができない質なので、足場をしっかりと踏み固めることを最重視する本書の説明のスタイルは、僕にぴったりとマッチした。カイ二乗分布、t分布についての説明も、類書とは比べものにならないほど丁寧である。

統計学的な思考法の概要を知るという目的に即するかぎり、飯田前著より本書のほうがよくできているように思う。もちろん、どちらも練りに練られた良書であることは間違いないのだが。他方、このような良書の助けを借りても、やはり認めざるをえないのは、統計学がいわゆる「耳学問」のような受動的な学び方を決して許さない、その意味で厳しい学問分野だということだ。何となくわかったムードにひたってしまうのがいちばん怖い。実際に手を動かして計算して、「体でわかる」必要があるのだ。

少しだけケチをつけさせていただく。すでに9刷を数えているのに、ところどころ「?」な箇所に遭遇する。いずれも些細なケチであり、本書に対する高い評価を揺るがすものではない。

  • 73ページの図表7-4を見ただけでは、「左右に3倍に広がっ」た時の高さの変化がイマイチわかりにくいのだが、これで合っているのか?
  • 117ページの練習問題のグラフにおいて、「3」「5」「6」「9」の間隔が均等でないのだが、これで合っているのか?(解答とズレがあるのだが。)
  • 161ページ、上から9行目「母分散σ」は誤植だと思う。分散なら2乗であるはずだ。

完全独習 統計学入門

完全独習 統計学入門

評価:★★★★★

*1:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20100814

*2:統計学の本質は数学記号とは別」(p.13)

西永良成『「超」フランス語入門』

2009年3月27日の日記*1にこう書いた。

新しい研究テーマとして今のところ以下の2つを考えている。

1つは、フランツ・アントン・メスメル(ウィーン出身の医師で、催眠術によって神経症の治療を行ったことで有名)の生涯と思想を、フランス革命思想およびイギリス保守思想との関係から考察してみること。もう1つは、中国においてマルサスの人口思想が果たした役割を、馬寅初(「中国のマルサス」と呼ばれた経済学者)の生涯と思想を手掛かりとして思想史的に跡付けてみること。どちらもまだ着手していないので想像の域を出ないけれども、フランス革命期のイギリス思想を研究したからこそ新しい光を当てられるテーマだと思う。

2009年度は、そのための基礎学力を鍛えるために、フランス語と中国語の勉強に力を注ぎたい。さしあたり、4月から某公共放送の語学講座を始めるつもりだ。フランス語のほうは、まったくの初心者と言ってよい。これまで3度ほどチャレンジしているが、いずれも肌に合わず1か月ほどで挫折した。今回こそリベンジなるか

こう書いてから1年半が過ぎた。語学講座は今でも視聴し続けているが、中国語と比べるとフランス語のほうの進捗状況はイマイチで、中国語のように基礎知識を仕入れていないだけに、こま切れの時間での勉強に限界を感じていた。まとまった時間で一気呵成に勉強する必要性を感じていた。

そんな折り、この夏は研究室が研究棟の耐震補強工事のために利用できず、自宅メインで仕事を進めることを余儀なくされた。自宅には研究用文献をまったく置いていないので、自分の専門である経済思想史の研究を進めることは不可能だ。たいへん困ったが、どうせならこの不便さを逆手にとって、フランス語を集中的に勉強しようと思い至った。語学の勉強ならば、場所の制約は受けない。テキストと辞書(と音声再生装置)さえあれば、どこでも勉強できる。

そこでテキストとして選んだのが本書である。amazon.co.jpのレヴューでも、非常に高い評価を獲得している。「独学におすすめ」「まるで授業を受けているよう」「フランス語入門の基礎の基礎。それだけに内容は簡単。だけど簡単だからといって馬鹿にはできない。 」「全体によくまとまっていて初級から中級の人までひろく使える本だと思います。 」等々。実際に使って(通読して)みたところ、まさしく評判通りの好著であった。

本書はとことん考え抜かれた入門書である。新書サイズの大きさしかないが、単なる「お役立ちフレーズ集」などではない。理屈抜きで覚えたい挨拶や日常会話から始まっているが、決して理屈を軽視しているわけではなく、むしろ逆で、文法解説はきわめて丁寧である。重要な語句やフレーズは「これでもか」とばかりに繰り返し登場する。文法解説も繰り返しが多い。繰り返しが知識の定着を促進してくれる。教材となる文章の配列が絶妙である。実用性を重んじつつも、後半ではシャンソンの歌詞や歴史上の偉人の名文句なども登場し、教養性も軽視されていない。発音がカナ表記なのもありがたい。初心者が躓きやすい箇所は著者にはすべてお見通しである。これがわずか200ページほどの新書サイズに収まっている。奇跡的な一冊だ。

これまで幾度も挑戦しては挫折してきたフランス語だが、このたびようやく入門書を初めて最後まで通読できた。フランス語の勘どころのようなものがようやく身についた気がする。今後フランス語を読む際には必ず本書を横に置いているはずだ。

誤植・誤記を1つ発見した。156ページ下から2行目。アクサンの入力方法がイマイチよくわからない。
 × re(')pe(')tais → ○ re(')pe(')tait

「超」フランス語入門―その美しさと愉しみ (中公新書)

「超」フランス語入門―その美しさと愉しみ (中公新書)

評価:★★★★★

飯田泰之『考える技術としての統計学』

バーク&マルサスについての研究書をまとめてから早いもので1年半が過ぎようとしている。この最初の単著では「保守主義」を切り口として両者の経済思想を統一的に把握しようと努めたが、これから先も同じ切り口で研究を続けたところで、生産性は低下していくばかりだ(限界生産力の逓減)。バーク&マルサスとは一生つきあうつもりだが、学問の世界で生き残るためには、自分の経済思想史研究を他者のそれと差別化しなければならない。1年半の間、いろいろと試行錯誤を繰り返した結果、次なる切り口を(「中国」に加えて)「統計学」に定めることにした。経済学方法論をテーマとする共同研究(経済学方法論フォーラム)に参加して、帰納法演繹法の絡みあいが経済学の歴史を鳥瞰する上でいかに有効な切り口であるかを痛感させられたからだ。そもそも、「前例・経験にもとづき、確率的に高い予想をする統計的な発想法」(p.25)は、帰納法の発想と基本的に重なるものである。もはや統計学の勉強は避けられないと悟った。「そろそろ本気で統計学の勉強を開始しなければ・・・。」その最初の一歩として本書を手に取った。

統計学や経済数学については、恥ずかしながら、これまで何冊かの入門書を手に取って読み始めては途中で挫折することを繰り返している。本書を通読して挫折の理由がようやくわかった気がした。これまで手に取った入門書には、僕自身がこだわっている問題――それを曖昧にしては気持ち悪くて先に進めない問題――が丁寧に説明されていなかったようだ。逆に言えば、本書ではそれがかなり詳しく説明されていたから、気持ち良く通読できたし、書かれている内容も「腑に落ちた」のである。

僕自身がこだわっていた問題とは「統計学的思考の本質」(後述)と「単位」の問題である。単位を欠いた計算式がどんどん変形されていくと、いったい何が行われているのか、僕はわからなくなってしまうたちなのだ。足し算にしろ、掛け算にしろ、「足し算によって何を求めているのか?そもそも足し算できるのか?単位は何か?」「掛け算によって何を求めているのか?そもそも掛け算できるのか?単位は何か?」が気になって、それ以上先に進めなくなってしまうのだ。ミクロ経済学でも、なぜ縦軸が価格で横軸が取引数量なのか、どうして逆ではないのか、気になって立ち止まってしまったような人間である。一度気になってしまうと、その疑問が氷解するまでは、永遠にわかった気にならないのだ。

標準偏差は分散の正の平方根である。確かにそうなのだ。しかし、それを丸暗記できないのが僕なのである。分散に平方根を作用させることの意味をひつこいくらいに丁寧に説明してもらえないと、僕は立ち止まってしまう。しかし、本書はこうした僕の疑問を見事に氷解してくれた。著者と僕はこだわる部分が似ている。試験の点数の分散と標準偏差について、著者はこのように説明してくれている。

「(データの値−平均)の二乗」の平均が分散です。分散は「データがふつう平均からどのくらい離れているか」を表していますから、データ全体のばらつきを表す指標と考えることができます。
・・・ここで単位に注意しましょう。点数の差の単位は「点」です。そして「点の二乗」の平均値の単位は「平方点」になります。・・・。
しかし、試験の得点のばらつきが「31000平方点」だといわれてもふつうはピンと来ません。できれば、ばらつきを表す指標の単位は元のデータと同じ単位であってほしいものです。そこで、二乗になってしまったデータを元に戻してやりましょう。そのためには平方根をとる(ルートをとる)とよいでしょう。
分散のルートが標準偏差です。(pp.64-5)

なぜ分散に平方根を作用させるのか、そうすることでいったい自分は何を遂行しているのか、とてもよくわかる説明だ。

細部にこだわりすぎたかもしれない。自分の無知をさらけ出しただけの可能性も高い。わかっている人には当たり前すぎる内容だろう。

本書は平均・分散・標準偏差、検定、回帰分析、時系列分析といった統計学の基本的トピックを、いかにして日常生活に役立たせるか(ビジネスや投資に応用するか)という観点から解説している。紙幅の制約もあって、やや詰め込み過ぎの感は否めず、決してすらすら読み進められるような平易な入門書ではない。読者にはそれなりの忍耐が要求される。しかし、僕の思考にはぴったりマッチした。「何のために統計学を学ぶのか?」「統計的思考とは何か?」という初発の問いが本書全体を貫いていることに大きな感銘を受けた。

最後に、特に印象に残った著者の言葉を2つほど紹介しておく。統計学的思考の本質とは何か? 

先に結論から書いてしまいましょう。統計学は論理的に妥当な思考法とは何かという命題に一つの解答を提示しているという意味で、哲学的にもっとも重要な方法論です。そして、適切な統計知識にもとづいてデータを観察することで、思い込みから「一歩引いた」論理的な思考ができるようになります。これは、哲学的関心以上に生活やビジネスでの意思決定にとり、大きな力となるでしょう。私たちの主観・思い込みは柔軟な思考の大敵です。(pp.4-5)

個人的には、「95%正しいので正しいと考えてその先に進もう」という割り切りや、「○○は棄却できないので〝間違いとはいえない〟とみなす」という思考ができるかどうかがデータにもとづく思考の肝だと考えています。(p.220)

数日前に「経済学説史」の春学期末試験の採点を終えた。残念ながら、定められた行数を埋めるために主観を撒き散らしただけの答案が大半を占めた。もっと論理的に思考して欲しい・・・。そのような頭の動かし方を学生諸君にわかりやすく伝えることはなかなか至難の業であるが、今後、統計学についての知識がその一助となってくれることは間違いない。これからもっともっと勉強したい。

考える技術としての統計学 生活・ビジネス・投資に生かす (NHKブックス)

考える技術としての統計学 生活・ビジネス・投資に生かす (NHKブックス)

評価:★★★★☆

マッド・アマノ『マッド・アマノの「謝罪の品格」』

著者はパロディ写真作家。 写真週刊誌『FOCUS』(新潮社、廃刊)の連載「狂告の時代」で広く知られる。本書はそんな著者が12年前から収集してきた300件超の「頭下げ(謝罪)会見」の写真入り新聞記事のコレクションの中から興味深い記事を厳選し、自身のコメントを付して、日本独自の特異な「謝罪文化」(「これほど真剣に謝っているのだから許そうじゃないか」)の問題性(責任の所在や事実究明の曖昧化)を風刺的手法で告発している。

僕が本書を手に取った動機は大きく2つある。第1に、本書でとりあげられている雪印事件や三菱自動車事件は、かつて僕自身がビジネス倫理関係の論文を書いた際に企業不祥事の典型的事例としてとりあげたことがあり、著者がそれらをどのように扱うのか、強い興味を覚えたからである。第2に、大学に勤務する者として、本書でとりあげられている甲南大学生の痴漢でっち上げ事件に対する学長謝罪の問題を看過できなかったからである。「大学の責任」を考える際の絶好のサンプルのように思えて、著者がそれをどのように扱うのか、興味を覚えずにいられなかった。

不祥事を起こしやすい企業が不利な情報を上にあげない隠蔽体質(コミュニケーション不全)を有していることは、本書のみならず拙論も強調したところであり、本書は自説を上書きしてくれた。謝罪の儀式性が、責任の所在(本人責任)の曖昧化につながっているという指摘には、強く同感する。

著者が指摘するように、不特定多数が不快を感じたにすぎない場合と人命に関わるような被害が発生した場合をごっちゃにしてはならないと思う。人命にかかわる不祥事を起こした企業や国の責任を追及することよりも、キャラのたつ個人への執拗な取材と報道のほうを優先してしまうマスコミの体質(p.212)に対して、僕は著者と同様の疑念を以前から抱いてきた。「有名税」と言ってしまえばそれまでだが、幸田來未の「失言」をめぐる一連の騒動は、単なるバッシング以上のものでなかったように思えるし、朝青龍の「横綱の品格」をめぐる一連の騒動についても、ほぼ同じことが言えるように思う。朝青龍が気の毒だ(p.140)とする著者の見解を僕も共有している。

日本において謝罪は内容空虚な儀礼にすぎない。だからこそ国民は場合を問わずすぐに謝罪させたがるのだろうか。しかし、それは責任の所在を曖昧化させるだけではないのか。謝る理由がない時に謝る必要はないはずだ。

大学が犯した罪ではないのだから謝罪の必要はない。必要なのは、犯人学生と大学の責任を明らかにして、それぞれが負うべき責任を負うことだ・・・。そして学長が謝らなかったことに対して、米国の世論はまったく抗議をしない。
私が日本の学校当局の謝罪に疑問を抱くのは、事件を起こした本人の責任と、教育機関としての責任の範囲を曖昧にするように思えてならないからだ。(pp.156-7)

しかし、こうした「主義」「正論」をこの国で貫くことがいかに危険なことか、誰もが皮膚感覚で知っている。あくまで仮定の話だが、僕自身が将来的に大学行政に携わることがあるとして、この「主義」「正論」を貫ける自信はない。不測の事態をすみやかに収拾するために、謝罪はたいへん有効な手段である。この厳然たる事実はやはり否定できない(その場しのぎになりやすいことも否定できないけれども)。悩ましい。

ただ、パロディ作家の著者にしては、コメントがストレートすぎて、あまり面白くない。パロディが欠如している。何だか自粛しているようにすら見える。また、ことあるごとに企業不祥事の裏に外国資本の陰謀を勘ぐっているのも、何だか興ざめである。テレビ業界の視聴率至上主義は確かにゆゆしき事態だが、それを批判するのに視聴率調査のサンプル数の少なさを挙げるのは、統計学的に考えて妥当とは言えない。

あえて買って読むほどの本ではなかったかもしれない。軽い読み物以上でも以下でもない。

評価:★★☆☆☆

ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』

新自由主義市場原理主義)のバイブルとして名高いフリードマンの主著の新訳。自由市場の利点を様々な角度から解き明かし、国家権力(政府)の市場への恣意的な介入を厳しく批判している。

本書(初版)の公刊は1962年だが、「まえがき」によれば、本書のもとになる講義は1956年6月に行われたらしい。当時はケインズ経済学の黄金時代であり、フリードマンの主張は異端視されていた。しかし、半世紀の間に、両者の立場は完全に逆転した。ケインズ経済学の権威の失墜とともに、フリードマンは復活した。半世紀以上も前にフリードマンが主張した「教育バウチャー」(第6章)、「企業の社会的責任」(第8章)、「一律的な比例課税」「負の所得税」(第10章)などは、当時のアメリカよりも今の日本においてのほうが、ホットなトピックであると言ってよいだろう。

フリードマンの経済思想については、様々なテキストで紹介されることが多いので、おおよそのことは知っていたが、やはり彼自身の著作を直接読んで知ったことも多い。いちばん強い印象を残したのは、ユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれたという彼の出自が、彼の市場擁護と密接に関係していたことである。

たとえばパンを買う人は、小麦を栽培したのが共産党員か共和党員か、民主主義者かファシストかなど気にしない。パンに関する限り、黒人か白人かも気に留めないだろう。この事実から、人格を持たない市場は経済活動を政治的意見から切り離すこと、そして経済活動において、政治的意見や皮膚の色など生産性とは無関係な理由による差別を排除することがわかる。
いまの例からわかるように、現在の社会において競争資本主義が維持され強化されたとき最も恩恵を受けるのは、黒人、ユダヤ人、外国人など少数集団である。こうした少数集団は、多数集団から疑惑の目で見られたり憎悪の対象になったりしやすい。にもかかわらず、じつに逆説的な現象だが、自由主義に敵対する社会主義者共産主義者には、これら少数集団に属す人が目立って多い。彼らは、市場の存在によって多数集団の威圧的傾向から守られていることを認めず、いまなお残る差別は市場のせいだと勘違いしている。(pp.60-1)

この引用は総論的な第1章からだが、彼は差別に関する単独章(第7章)も別途設けており、差別という問題を非常に重要視していたことがうかがえる。市場が時に暴力的であることは確かだが、国家権力による暴力(ホロコーストを想起せよ)に比べれば取るに足らない、という認識が彼にはあったのだろう。

本書は、ミル『自由論』、ハイエクの『隷従への道』と並んで、リバタリアニズムの三名著と呼ばれているらしい。実際、若き日のフリードマンが『自由論』から多くを学んだことは、伝記的研究からも知られている。しかし、『資本主義と自由』にミルの名前はただ一度登場するだけで、しかも参照されている著作は『自由論』ではなく『経済学原理』である(p.307)。このことは何を意味するのだろうか? たいへん興味深い。最近ずっとこの問題を考えている。

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

評価:★★★★★

岩崎夏海『もしも高校野球の女子マネージャードラッカーの『マネジメント』を読んだら』

今では知らない人がいないであろう100万部突破のベストセラー。8期(4回生)ゼミのテキストとして選んだ時点では、まさかここまでの大ヒットになるとは想像だにしなかった。

その内容は、タイトルから予想できるように、高校野球の女子マネージャーがたまたま経営学ピーター・ドラッカーの『マネジメント』と出会い、そこに書かれている「マネジャー」という存在を自分のことだと勘違いして、本の通りに野球部のマネジメントを進めるうちに、野球部がどんどん強くなり、最後には甲子園出場を果たしてしまう、という筋書きの青春小説である。著者は秋元康の弟子にあたる放送作家で、本書がデビュー作にあたる。

本書のすべてがnakcazawaゼミのコンセプトに合致している気がする。「過去の偉大な学説を現実の生活に応用するとどうなるか?」という発想自体がnakcazawaゼミらしい。また、ゼミのテーマとして「あたりまえを問いなおす」を掲げているわけだが、「あとがき」の著者の言葉は、まさにその「問いなおし」の格好の例である。ゼミ生には著者が抱いたような素朴な疑問を大切にしてもらいたい。

それ以前から、ぼくは「マネジャー(あるいはマネージャー)」という言葉については、とても気になるところがあった。というのも、日本と欧米とでは、その意味するところに大きな違いがあったからだ。
例えば、アメリカ大リーグで「マネジャー」といえば、それは「監督」のことを指す。しかし日本では、真っ先に思い浮かぶのは「高校野球の女子マネージャー」だ。しかもそこには、「スコアをつけたり後片づけをする」といった、下働き的なニュアンスさえ含まれている。つまり、英語圏のそれとは、責任や役割において、指し示すものに大きな違いがあるのだ。(pp.269-70)

個人的にいちばん興味深く読んだのは、第6章「みなみはイノベーションに取り組んだ」に出てくる「組織の最適規模」の話である。実は僕はこのトピックについてかつて論考を発表したことがある(「組織と仕事:誰のために働くのか?」、佐藤方宣編『ビジネス倫理の論じ方』ナカニシヤ出版、所収)。組織が目指すべきは規模は、「最大」ではなく「最適」であり、それを実現するためには「勇気、真摯さ、熟慮、行動」が必要である、とのこと。何とも含蓄が深い。

「真摯さ」はこの青春小説のキーワードである。最後の最後に「どんでん返し」が待ち受けているが、それを知る楽しみは読み手の側に残しておきたい。

もし一般読者向けの本を自由に書く機会が僕に与えられたとすれば、無味乾燥な教科書などではなく、本書のような潤いあふれる作品を書きたいものだ(書けるだけの能力があるかどうかは別にして)。

評価:★★★★☆

神野直彦『「分かち合い」の経済学』

スウェーデン語の「オムソーリ」は「社会サービス」を意味するが、その原義は「悲しみの分かち合い」である。著者によれば、この「オムソーリ」という言葉を導きの糸として、日本社会をヴィジョンを描くことが本書の目的であるとのこと。

同じ著者の『地域再生の経済学』については、この「乱読ノート」ですでに紹介しているが*1、本書の内容はその続編と言いうる。半分くらい重複している(悪く言えば、同じ主張の繰り返しが多い)。ブレトン・ウッズ体制の崩壊による世界経済の構造変化(グローバル化)、工業社会からポスト工業社会(知識社会)への転換は、『地域…』と本書の両方の議論に共通する歴史的背景である。『地域・・・』では、税制改革の具体的なプログラムの説明に多くの紙幅が割かれていたのに対して、本書では、(著者が理想と見なしている)スウェーデンをはじめとする北欧諸国の社会・経済・政治システムの説明に多くの紙幅が割かれている。

・・・国民の安心を保障するのは、制度ではなく、制度を支える人間の絆である。年老いても必ず社会の他者が生活を支えてくれるという人間の絆への信頼こそが、安心を保障するのである。
こうした人間の絆をスウェーデンでは、社会経済モデルの鍵を握る概念として位置づけて、「社会資本(social capital)」と呼んでいる。(p.12)

・・・貧困者に限定した現金給付の支出ウェイトの高い国は、アメリカ、イギリスというアングロ・サクソン諸国である。
これに対して貧困者に限定した現金給付である社会的扶助支出のウェイトの少ない国は、スウェーデンデンマークというスカンジナビア諸国である。・・・。
・・・格差や貧困率の低いスカンジナビア諸国は社会的支出のウェイトが高い。つまり、福祉、医療という対人社会サービスのウェイトが高い。逆にアングロサクソン諸国は社会的支出のウェイトが低い。・・・。
貧困者に限定して現金を給付することを「垂直的再分配」と呼んでおくと、育児や養老などの福祉サービスや、医療サービスを社会的支出として、所得の多寡にかかわりなく提供していくことは「水平的再分配」と呼ぶことができる。・・・。
一見すると、垂直的再分配のほうが、格差や貧困を解決するように思うかもしれない。貧しき者に現金が給付されるからである。ところが、現実には水平的再分配のほうが、格差や貧困を解消してしまう。・・・。
・・・現金給付にはミミッキング(mimicking)つまり「擬態」という効果が生じる。つまり、「お金のない振りをする」という不正が生まれる。
ところが、サービス給付だと、振りをするという「擬態」が生じない。・・・。
こうして工業社会から知識社会への転換にともなって、社会システムの「分かち合い」を政治システムに埋め込むことが重要になってくる。垂直的再分配から水平的再分配へ、現金給付からサービス給付へとシフトすることが必要になってくるからである。(pp.113-9)

・・・アメリカや日本の場合と、スカンジナビア諸国の場合では、雇用の弾力性を高めている目的がまったく異なる。スカジナビア諸国が雇用の弾力性を高める目的は、産業構造を転換していくことにある。つまり、旧来の衰退している産業から、知識産業など新しく成長していく産業へと労働者を転換させるために、雇用の弾力性を高めているのである。
・・・成長産業へと労働者を移行させるためには、再教育、再訓練などの積極的条件を整備しなければならない。これを積極的労働市場政策と呼ぶ。・・・。
旧来産業から新しい産業へ労働を移動させるために、雇用の弾力性を高めていくという政策を象徴するのが、デンマークが明示的に訴えている「フレキシキュリティ(flexicurity)」という戦略である。フレキシキュリティとは、「柔軟性」を意味する「フレキシビリティ(flexibility)」と、「安全」を意味する「セキュリティ(security)」とを合成した造語である。つまり、労働市場の弾力性(フレキシビリティ)」を高めるとともに、生活の安全保障(セキュリティ)は強化するという政策が、フレキシキュリティという戦略である。
生活の安全保障として、失業者の生活を保障するために手厚い社会保障を整備する。しかし、それだけではなく、アクティベーション(activation)、つまり失業者に対する再教育や再訓練という積極的労働市場政策によって、新しい就業を保障していく。・・・。
知識社会への転換を提唱しているスウェーデンも、労働市場を弾力的にしながら、積極的労働市場政策を進めている。(pp.165-7)

著者は自らが唱える「分かち合い」の思想を「異端」の思想(p.196)であると言う。経済学者である著者が、自らの議論を構築するにあたって、「ホモ・エコノミクス(経済人)」の仮説――「人間は経済活動において自己利益のみに基づいて完全に合理的に行動する」という経済学における理論的仮説――をきっぱりと退けていることは、確かに「異端」の名前にふさわしい。

共同体にあっては、すべての共同体の構成員が、共同体に参加して任務を果たしたいと願っている。高齢者であろうと、障害者であろうと、誰もが掛け替えのない能力をもっている。しかも、そうした能力を共同体のために発揮したいという欲求をもっている。そうした欲求が充足された時に、人間は自分自身の存在価値を認識し、幸福を実感できるからである。これが「分かち合い」の思想である。(p.14)

僕自身もまたそんな著者の主張に強い賛意を表明する異端者である。ただ、疑問点がまったくないわけではない。「果たしてスウェーデンデンマークといった人口規模が日本と違いすぎる国(それぞれ約900万人と約550万人)は日本の将来モデルになりうるのか?」という疑問がどうしても湧きあがる。この点は本書の主題に関わるだけにもっと丁寧に説明して欲しかった。また、著者は「「同一労働、同一賃金」の原則」(p.162)の確立を唱えるが、これはあまりにも現実離れしているように思われた。同じ労働であっても儲かっている会社と儲かっていない会社では社員の給料が違うのは当り前ではないのか?

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

評価:★★★☆☆

ミル『自由論』

思想史上に燦然と輝く不滅の大古典(原著1859年)の新訳。岩波文庫の訳文(塩尻・木村訳)と比較して、岩波側に軍配をあげる読者はほとんどいないのではないか? そう思えるくらいに、この新しい訳文は流麗で親しみやすい。

本書に表明されている自由観のうち、今日においても最も有名で広く支持されているのは、「他者危害[防止/排除/禁止]原則」として知られる自由観であろう。その原則は、著者ジョン・スチュアート・ミル(1806-73)自身の言葉で、以下のように表明されている。

この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。社会が個人に対して強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制で会っても、その干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正しいといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物理的にあるいは精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。ある行動を強制するか、ある行動を控えるよう強制するとき、本人にとって良いことだから、本人が幸福になれるから、さらには、強制する側からみてそれが賢明か、正しいことだからという点は正当な理由にならない。これらの点は、忠告するか、説き伏せるか、説得するか、懇願する理由にはなるが、強制する理由にはならないし、応じなかった場合に処罰を与える理由にはならない。強制や処罰が正当だといえるには、抑止しようとしている行動が誰か他人に危害を与えるものだといえなければならない。個人の行動のうち、社会に対して責任を負わなければならないのは、他人に関係する部分だけである。本人だけに関係する部分については、各人は当然の権利として、絶対的な自主独立を維持できる。自分自身に対して、自分の身体と心に対して、人はみな主権をもっているのである。(pp.27-8)

どうやらこの原則こそが、ミルトン・フリードマンの経済思想・社会哲学に基本的枠組みを与えたようだ。ラニー・エーベンシュタイン『最強の経済学者 ミルトン・フリードマン』によれば、彼はラトガーズ大学の

・・・1年か2年のとき、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読み、リバタリアニズム自由至上主義)の思想にふれる。「『自由論』には、リバタリアニズムの基本原則がもっとも簡明に示されている。『文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである』」(pp.28-9)

知的好奇心が旺盛なフリードマンは、ラトガーズ大学時代にジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読み、他人に迷惑をかけない限り、個人はなんでも好きなことをできるというリバタリアニズム自由至上主義)の根本理念に感動するが、そうしたものの考え方が具体的な政策提言に結びつくには、長い時間がかかった。(p.52)

しかし、若きフリードマンが『自由論』をいかに愛読していたとしても、彼の理解が『自由論』の唯一絶対の理解であるわけがない。古典的著作の豊饒な思想世界は、問題関心の異なる読者を、読書のたびごとに異なった種類の深遠な思索へと導いていく。それは、古典が古典であるゆえんとして、当然のことである。実際、僕は「他者危害原則」以外の叙述のほうにより強く印象づけられた。

「他者危害原則」をそのまま真に受ければ、自らの境遇を悪化させるような愚かな行為を行う権利も各人に認めなければならなくなるが、果たして本当にそうだろうか? もしそうであれば、なぜ画一化の趨勢に抗うこと、個性を尊重し発展させることが、かくも力強く主張されているのだろうか? 「みんなと同じでいいじゃない。そうする自由を私は選びたい」という意見をどのように考えればよいのか? さらには、先の原則を現実の諸問題に適用しようとする場合、「毒物の販売の是非」や「親の子どもに対する責任」といった問題をどのように考えればよいのだろうか?

理解が一段階深まると、さらなる新たな疑問に漂着する。そのような粘り強い思索をミルと一緒に続けるうちに、日常の「あたりまえ」がいつの間にか「あたりまえ」でなくなっている。読書の醍醐味を堪能させてくれる。やはり紛うことなき不滅の大古典である。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

評価:★★★★★

西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』

漫画家・西原理恵子さんが自らの半生を「お金」についての思索とともに綴ったエッセイ。中高生向け新書「よりみちパン!セ」シリーズの一冊として公刊された。*1

高知県の貧しい漁師町に生まれ、複雑な家庭事情のもとで育った著者は、高校中退後、大好きな絵で生きていくことを決意して、単身上京する。美大で落ちこぼれてしまうが、持ち前のバイタリティを発揮して、エロ本のカット描きの仕事を手に入れる。それをきっかけとして、少しずつ能力を認められるようになり、一歩一歩着実にキャリアを積み重ねて、漫画家としての成功を手に入れる。しかし、成功によって手に入れたお金の多くを、ギャンブルにのめりこんだことで失ってしまう。お金を通して見えてきた、自分と仕事、自分と他者、自分と世界、自分と家族・・・・。

どこか切なく、それでいて生きていくことへの勇気を与えてくれる一冊。すべての若者に読んでもらいたい。

自分は絶対に絵を描く人になって東京で食べていく。そう心に決めた。
この町には、もう、絶対に帰らない。
こんなたいへんなときなのに、お母さんは「行きなさい」って、わたしに言ってくれたんだもん。絶対に帰れない。
わたしの歩きだした道は、だから引き返せない一本道だった。(p.75)

最下位の人間に、勝ち目なんかないって思う?
そんなの最初っから「負け組」だって。
だとしたら、それはトップの人間に勝とうと思っているからだよ。目先の順位に目がくらんで、戦う相手をまちがえちゃあ、いけない。
そもそも、わたしの目標は「トップになること」じゃないし、そんなものハナからなれるわけがない。じゃあ、これだけは譲れない、いちばん大切な目標は何か。
「この東京で、絵を書いて食べていくこと」。
だとしたら肝心なのは、トップと自分の順位をくらべて卑屈になることじゃない。
最下位なわたしの絵でも、使ってくれるところを探さなくちゃ。最下位の人間には、最下位の戦い方がある!(pp.84-5)

「どうしたら夢がかなうか?」って考えると、ぜんぶを諦めてしまいそうになるけど、そうじゃなくって、「どうしたらそれで稼げるか?」って考えてごらん。
そうすると、必ず、次の一手が見えてくるものなんだよ。
数えきれないほどの出版社に必死で売り込みをかけるうちに、わたしも、そのことを学んだと思う。
・・・。
だいたい、そういう自分の才能に自信のある子たちって、プライドだって高いからね。エロ本の出版社になんか、絶対に売り込みに行くわけないもん・・・。
だけどね、最下位のわたしのチャンスは、そういう絵のうまい人たちが絶対に行かないようなところにこそ、あったんだよ。
プライドで、メシが食えますかっていうの!
わたしに言わせるなら、プライドなんてもんはね、一銭にもならないよ。(pp.93-6)

才能なんて、だから天賦のものではなくて、ほとんどあとからもらったものだと思う。
わたしだって、最初は自分に何ができるかなんて、ぜんぜんわかっちゃいなかった。
だいたい東京に出てきたときに、まさか自分がエロ本で「オンナのアソコはこう攻めろ!」なんていうテーマで図解を描くようになるなんて、夢にも思わないもんね。
おんなじ業界でもいろんな仕事があるから、来る仕事、来る仕事が、ほとんど「想定外」みたいなもの。
でも、自分がそれをできるかどうかなんて、やってみないとわからないよね。だから、来る仕事は、わたしは断らなかった。場数を踏んでいるうちに慣れてくるし、自分の得意、不得意だってわかってくる。
・・・。
何でも仕事をはじめたら、「どうしてもこれじゃなきゃ」って粘るだけじゃなくて、人がみつけてくれた自分の「良さ」を信じて、その波に乗ってみたらいい。
わたしの場合も、人から「あれ描いて」「これ描いて」って注文されて、断らずにやっているうちに「このあいだのアレ、おもしろかったよ」「こういうのをまたやりましょう」って、ウケるほうに、食べていけるほうに、仕事が寄っていった。そうなると、ひとつの仕事が次の仕事を呼んで、仕事の道ができていく。
だから私は思うのよ。
「才能」って、人から教えられるもんだって。(pp.106-9)

それでも、もし「仕事」や「働くこと」に対するイメージがぼんやりするようならば、「人に喜ばれる」という視点で考えるといいんじゃないかな。・・・。
人が喜んでくれる仕事っていうのは長持ちするんだよ。いくら高いお金をもらっても、そういう喜びがないと、どんな仕事であれ、なかなかつづくものじゃない。
自分にとっても向き不向きみたいな視点だけじゃなくって、そういう、他人にとって自分の仕事はどういう意味を持つのかって視点も、持つことができたらいいよね。
自分が稼いだこの「カネ」は、誰かに喜んでもらえたことの報酬なんだ。(pp.198-9)

本書で西原さんが展開している「仕事」や「競争」についての思索は、僕も執筆に加わっている佐藤方宣編『ビジネス倫理の論じ方』(特にその第3・4章)と不思議なくらい符合している。あわせて読んでいただけると幸いである。

ともすれば労苦となりがちな労働を喜悦に変える環境要因は・・・その労働を通じて自分が他者とどれほど豊かな関係を結んでいるかの自覚なのである。(『ビジネス倫理の論じ方』第3章)

競争とは一つのものをめぐって争っているわけではない。・・・競争とは非常に多様なものであり、人々は一つの競争で負けたとしても、その場所を「降りる」ことによって、別の競争に移ることができる・・・。(『ビジネス倫理の論じ方』第4章)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

評価:★★★★★

*1:このエントリの日付は2010年6月だが、実際に書いているのは2011年2月で。この半年間に本書の版元である理論社は経営破綻してしまった。http://www.cinra.net/news/2010/10/06/205205.php このニュースでも触れられているが、「よりみちパン!セ」話題性に富む良書ぞろいで、好評を博したシリーズだったので、本当に残念である。

烏賀陽弘道『Jポップとは何か』

8期ゼミのテキスト。HYSさんが選んでくれた。ヴォーカル・トレーニングを受けている彼女は大好きな音楽をテーマとした卒論を書きたいようで、その予備的作業として本書に基づく報告を行おうと思い至ったらしい。

音楽(聞く・演奏する)を趣味にしているゼミ生はこれまでも少なくなく、「卒論テーマに音楽を選びたいんですが・・・」と相談に来られたことが幾度もあったが、僕は「薦められない」と繰り返し返答してきた。音楽のように感覚に強く訴えかけるテーマ(「お笑い」なども同じ)だと、主観的な「好き/嫌い」「思い入れ」の束縛から自由になることがきわめて難しく、データを踏まえた客観的な分析という論文の要件を満たすことが(少なくとも僕のゼミ生には)ほとんど不可能だったからだ。しかしながら、本書は音楽という難しいテーマを論じる際の格好の見本としてお薦めできる一冊である。さすが元朝日新聞記者の著者だけあって、その難業を見事にやってのけた。

本書は、文化・産業としての「Jポップ」――その呼び名ができたのは1988年末ごろであるらしい――を、豊富な取材に基づきながら、経済のグローバル化の進展(その反作用としてのローカル化)、産業技術のデジタル化、メディア(テレビ業界・広告業界)との関わり方の変化などの観点から、多面的に分析している。1968年生まれの僕にとっては同時代史としても読みうる内容で、最初から最後までたいへん面白く読ませてもらった。論理的に書かれているが、記述は決して難解でない。その内容は説得力に富むものであった。

その多面的な分析を手短にまとめることは容易ではないが、本書の根幹をなすのは、以下のような問いである。

「Jポップ」という名前がどんな音楽を指すのか、私もよくわからなかった。そしてこの新奇な名称がある日突然現れたという現象そのものに、興味を持った。・・・「Jポップ」という言葉は一体誰が考えたのか。なぜそんな名前が生まれたのか。それは日本のポピュラー音楽をどう変えたのか。そこを通して見た日本という社会はどんな姿に見えるのか。これが本書の根幹をなす問いである。(p.ii)

この問いに対する著者の答えは以下である。

・・・経済で世界(主に欧米)に比肩しうるような日本が、次に夢見たファンタジーは「文化でも世界でも肩を並べること」であり、88年に生まれた「Jポップ」という名称が消費者に運んだのは「日本のポピュラー音楽という文化が世界に肩を並べるようになった=精神的に豊かになった」というファンタジーだった・・・。(p.131)

「海外でも受容されるインターナショナルなポピュラー音楽」というJポップのファンタジーである(p.171)

このようなファンタジーの背景にあるのは、1980年代に急速に進展した世界経済のグローバル化であり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉に象徴されるように、「日本経済はついに米国経済に比肩するようになったのだ」という大いなる自信である。

また、1980年代には、産業技術のデジタル化が著しく進展し、そのことが音楽を愛好し消費する層を大きく変貌させた。

・・・70年代後半から80年代前半になると、オーディオディスクの生産額は3千億円を目前としてぴたりと伸びが止まってしまう。同時に、再生装置の売れ行きも足踏み状態に入る。「買うべき購買層には再生装置は行き渡った」。そういうふうに言われていてもなお、家電メーカーの参入は増え続け、再生装置は供給過剰状態に陥った。
・・・。
が、そんな行き詰まりを打破する画期的な技術的ブレイクスルーが訪れる。それがCDの登場なのだ。(pp.29-30)

CDが登場するまでのアナログ時代、レコードプレーヤーにアンプ、スピーカーなどコンポを揃えてLPを楽しむことができたのは、購買力の高い層だった。その中心は成人男性である、いわゆる「オーディオ」は「大人の男の高級な趣味」だったのだ。(p.42)

ところが、CD時代になって女性や若者が新しい顧客の仲間入りをしたことで、成人男性の顧客としての比重は相対的に低下した。(p.45)

さらには、この時代以降、音楽とマスコミとの関わり方も大きく変化した。テレビとのタイアップの強化は、音楽産業の規模を拡大したものの、音楽表現の多様性の喪失という皮肉な結果を生んだ。

「音楽」「テレビ」「広告」が合流して「Jポップ産業複合体」が生まれた。Jポップ産業複合体は、「音楽」「テレビ」「広告」が共存する新しいメディア空間を生んだ。レコード会社は、その新しいメディア空間をその活動舞台として当初から想定した人材を開発した。(p.98)

広告の表現基準がポピュラー音楽に持ち込まれた。・・・広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため「社会のマジョリティが合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気づかないような内容を歌にして世に出したりできる、極めてレンジの広い表現形態である。しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。(p.102)

日本のポピュラー音楽は「Jポップ化」することによって、音楽としての質を低下させたのだ。1998年以降の音楽産業の不振(CDの売上げの急落)の一番の原因は、「インターネットからの不法ダウンロード」でも「逆輸入盤」でもなく、「製品」である「楽曲」の質の低下にあるのではないか? 著者はこのように問題提起して、本書を終えている(p.228)。

本書でいちばん印象深かったのは、ずいぶん昔から個人的に抱いていた疑問「なぜ日本の歌手はネイティブに通じない疑似(和製)英語で歌うのか?」に対して、著者が明確な解答を示してくれていたことである。

実は、Jポップが持つ「日本のポピュラー音楽が外国と肩を並べた」というファンタジーそのものが、この「外国と肩を並べたポピュラー音楽を愛好する自分を好ましく感じる」「自分も外国と肩を並べたかのように感じる」という消費者の自己愛的な嗜好を先読みしたマーケティングの産物だともいるのである。(p.155)

90年代になって、日本人を相手に、つまり国外ではレコードが発売されていないのに英語の歌詞を歌う歌手・バンドが増えたことも、そうした聴き手のファンタジーをかなえることを商品価値として狙ったものと考えるとわかりやすい。
筆者はかつてBONNIE PINKTRFブリリアント・グルーンなどが歌っている英語歌詞を検証し、そのほとんどが英語として成立しないことを指摘したことがある。・・・宇多田ヒカルを唯一の例外として、残りは英語歌詞として成立するものはひとつもない・・・。
では、なぜ疑似英語を日本人相手に歌うという奇妙な現象が後を絶たず、聴き手もそれを問題とは感じないのだろうか。
ナルシシズム消費の文脈で考えれば理解しやすい。そうした音楽を購入する消費者にとって重要なことは、それがたとえ疑似英語であっても「自分と同じ日本人歌手が英語で歌う」ことであり、「それをカラオケで歌っている自分を好ましいと思う」「そのCDを所有している自分を好ましいと思う」ことなのである。
こうした「英語で歌う日本人」を愛好する聴き手が、欧米の英語ネイティブが母国語で歌う音楽(つまり洋楽)を愛好しているかというと、必ずしもそうではない。そうした日本の聴き手が求めているのは、あくまで「英語(のような言葉)で歌う日本人」=「インターナショナルに見える日本人」なのである。その商品価値は「インターナショナルに見える」だけで十分に満たされる。(pp.158-60)

「見える」だけなのは恥ずかしいという感覚が、どうしても僕にはある。「インターナショナルに見える」だけでは満たされない。「インターナショナルでありたい」という気持ちが(それほど強くはないけれど)あるからこそ、今も英語を勉強している。それゆえ、正しい英語へのこだわりも強い。しかし、「それがナルシシズム消費であろうとなかろうと、音楽の楽しみ方は人それぞれじゃないか?」と抗弁されると、それに反論しづらいのも確かである。

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

評価:★★★★☆

小山信康『貯金のできる人できない人』

9期ゼミのテキスト。T田さんの選定。

無駄遣いを減らすためには、何が無駄なのかを発見する必要がある。本書は「無駄遣いを減らすために日々の支出を記録(レコーディング)してみよう」と提言し、そのための具体的なノウハウを解説している。レコーディング・ダイエットの手法をそのまま貯金にも活かそうとしたものだ。

表面上は軽い読み物であるが、単なるハウツー本に終わらせない読み方も可能である。本書をもとに「投資とは何か?交際費が投資に相当するのはどのような場合か?」を考えてみると面白い。また、「時間を投資する」という考え方も重要だ。日々の時間の無駄遣いを減らして、空いている時間を将来のスキルアップのために有効活用する(156ページ以下)とは、つまるところ、現在の時間を将来のために投資することを意味する。収入を増やすために努力した時間というのは、たとえ今失敗したとしても、数年後の収入増に役立つはずだ。このような「時間を投資する」という考え方を手に入れることによって、我々は現在の失敗経験をポジティブにとらえなおすことができるはずだ。*1

正直に言うと、僕自身が本書から得るところはさほど多くなかった(普段から考えていることが大半だった)が、ゼミ生たちは多くを学んでくれたように見受けられた。

評価:★★☆☆☆

*1:僕の場合、チャレンジしては挫折することを繰り返し、少なくとも現時点では仕事で使えるレベルにまったく到達していない中国語・ロシア語・フランス語の勉強に充てた時間が、その「投資」にあたるだろう。

國森康弘『家族を看取る』

「死」と「お金」をテーマとする9期ゼミの最初のテキスト。

本書は、フリーのフォトジャーナリスト(元神戸新聞記者)である著者が、日本海の離島(島根県知夫里(ちぶり)島)で高齢者に手厚いターミナルケアをほどこす養護施設「なごみの里」を取材し、「幸せな死」についての思索をまとめたものである。

著者はそれ以前に世界各地の貧困地域・紛争地域を取材し、飢えや戦禍による「選択余地のない死」「望まない死」を数多く見つめてきた。そのような死ばかりを伝えることに迷いが生じていた著者は、「「幸せな死」はこの世に存在するのか。存在するとすれば一体どこに、どんな形で存在するのだろうか。」(p.12)と自問するに至った。そんな折り、「なごみ里」の存在を知り、取材を重ねるようになった。

「なごみの里」代表の柴田久美子さん(1952- )は、日本マクドナルド社での凄腕キャリアウーマンの時期を経て、40歳を過ぎてから、介護の仕事に携わるようになった。しかし、特別養護老人ホームや有料老人ホームでは、少人数の職員による効率最優先の介護(統制・管理の強化)を余儀なくされ、入所している高齢者本人が望むような最期を迎えることはきわめて難しかった。医療技術の発達による延命至上主義の風潮がそうした困難に拍車をかけた。このような現実に対する疑問が、「なごみの里」創設(2002年)のきっかけとなった。

入所者3人に対し、介護福祉士やヘルパーの資格を持った正規職員に村の有償ボランティア数人を加え、スタッフは10人を超える。「世界で一番手厚い、行き届いた介護」と柴田さんは笑う。(p.42)

「なごみの里」は、「高齢者1人1人が自分の家にいるような感覚で、目一杯甘え、わがままを言える環境づくりを心掛けている」(p.24)。高齢者が安らかな最期を迎えられるためにいちばん大切なのは、看取り師との「1対1」(pp.24, 93, 97)の深い関係である。

何もしないで、ただそばにいる。添い寝する。身体をさする。手を握る。声をかける。「そうだね」と共感する。それだけでいい。そうすることで、死に行く者は死を自然に受け入れるようになり、やがて「仏」のような柔和な表情へと変わっていく。これこそ、逝く人が満足し、残る人も救われる看取りのかたちなのだ。

「1対1」の深い関係を大切にしようとすれば、「福祉はビジネスと相反するという前提」(p.196)を認める必要があるだろう。

大規模な看取り施設の運営話を持ちかけられたりもしたが、「自分が責任を持って同時に見ることができるのは8人くらいまでだから」と断った。(p.45)

上に、「残る人も救われる」と書いた。実は、看取りとは、看取られる側だけでなく看取る側も充足感と感謝で満たされる大切な儀式なのだ(むしろ、本当に救われるのは看取り側である)、というのが本書のもう1つの大切なメッセージである。

死とは一体何なのか――。
死は、代々受け継いできた命のエネルギーを、次の世代に受け渡していく、命のリレー。どれだけ途中苦しんできた人も、遅くとも最後の瞬間には「救われる」ことを数々の死に立ち会い、その表情から教えてもらった。「幸齢者」はその瞬間に「仏様」のような表情で、光に包まれ、先に逝った人たちの世界に招かれていく。いわば、「死はご褒美」なのだ。
果たして、どれだけの人が死をご褒美だと受け止めることができるのか疑問だ。ただ、今まで死を「苦」「汚れ」などと何の根拠もなく全面否定的に捉えて忌み嫌ってきた私たちは、死の世界を実際には知らない以上、この際、「死はご褒美」とする発想についても少なくとも同程度には受け入れてもいいのではないだろうか。看取りの取材を進めていて、そんな気がしてきた。そしてそれは、死を迎える人にとってだけではない。看取る側の人たちにとってもかけがえのない「ご褒美」と言える。(pp.90-1)

僕も父を看取った。父の死に顔があまりにきれいだったので、母が「結婚した時とおんなじ顔してるわ」と感動していた(同じことが208ページにも書いてあった)。本当に救われたのは残された家族のほうなのかも。・・・おそらくそうだろう。そんな気がしてならない。

家族を看取る―心がそばにあればいい (平凡社新書)

家族を看取る―心がそばにあればいい (平凡社新書)

評価:★★★★☆

神野直彦『地域再生の経済学』

ちょうど1年前の今頃、同僚SB先生(地域経済学)の学部ゼミで「地方工業都市の現状と課題」(卒論テーマ)について研究していたN本君を、ひょんなことから自分の院ゼミ生として受け入れることになった。以来、修論指導の関係で、地域経済学と(自分の専門である)経済思想史との接点をことあるごとに探索してきた。そんな折りにたまたま出会った出会ったのが本書である。

著者は新自由主義(市場主義)の潮流に批判的な財政学者である。日本の地域再生のシナリオ――生産機能を重視した地域再生から生活機能を重視した地域再生への転換、市場主義によるアングロ・アメリカン型(あるいは小泉&竹中構造改革型)の地域再生から反市場主義的な(=市民の共同の経済である財政にもとづく)ヨーロッパ型の地域再生への転換――の道筋を、財政思想史の知見を踏まえつつ、地方への税源移譲というの視点から描き出そうとしている。

本書の概要をまとめれば、以下のようになるだろう。

1980年代以降、資本の自由な移動が可能になり、経済システムのボーダレス化・グローバル化が進展すると(その背景にはブレトン・ウッズ体制の崩壊による資本統制の解除がある)、そのメダルの背面として、海外生産比率が急激に上昇し、地方圏からアジアへと工場機能が流出して、地方圏の生産機能が空洞化し、地域社会は衰退の一途をたどっている。

しかし、今日の世界は重化学工業を機軸とする産業構造の時代から、情報・知識産業を機軸とする産業構造の時代へと転換しつつある。いったん流出した工業を呼び戻すために企業誘致を図ることは、この流れに反しており、時代錯誤である。このような流れの中で地域社会を再生させるためには、工業に代わる知識産業を地域の伝統的な文化を復興させることによって創り出す以外に方法がない。

見習うべきは、フランスのストラスブールなどに代表されるヨーロッパの都市である。「ヨーロッパの都市再生の秘密は、市民が共同負担にもとづいて、共同事業を実施できる財政上の自己決定権にある。市民が支配する財政によって、市民の共同事業として都市再生が実施されれば、大地の上には人間の生活が築かれることになる」(p.13)。地方自治体の財政的な自立(国から地方への税源移譲)があって、初めて生活機能重視の地域の再生が成り立つ。人的投資(教育)が公共サービスとして供給されて初めて、知識社会(あるいは新しい人間の欲求)に対応した新しい産業(雇用)が創出される。

おおよそ以上のような内容であると言えよう。

アメリカとヨーロッパの都市再生の方向性を過度に二項対立的に捉えている嫌いがある(必ずしもそうとは言えないことが、中村剛治郎『地域政治経済学』で指摘されている)けれども、それを除けば著者の主張は平易かつ説得的で、僕は基本的に賛成である。普段僕が漠然と考えていたことを、僕に代わって明快な言葉で表現してくれた。感謝したい。

自分の無知をさらけ出すようで恐縮だが、本書でいちばん勉強になったのは、ブレトン・ウッズ体制(の崩壊)の世界史的意味に関する叙述である。ブレトン・ウッズ体制所得再分配国家の前提をなしていたがゆえに、その崩壊が新自由主義的政策思想の台頭を招いたことは、指摘されれば当然なのだが、本書を読むまで明確に意識したことはなかった。

地域再生の経済学―豊かさを問い直す (中公新書)

地域再生の経済学―豊かさを問い直す (中公新書)

評価:★★★★☆

立岩真也・尾藤廣喜・岡本厚『生存権』

大学院時代の恩師の一人である中村健吾先生が編者を務められた社会思想史の教科書『古典から読み解く社会思想史』(ミネルヴァ書房)に、僕は「人間の権利は存在するのか?――バーク、ペイン」(第2章)と題する論考を寄稿した。*1「人権をテーマとした章を書いて欲しい」というのは中村先生からのリクエストで、それに合わせて書いたわけだが、この論考を準備するうちに人権(特に生存権)への関心が僕の中で一気に高まった。そのようなタイミングでたまたま手に取ったのが本書である。

本書は「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法第25条)をテーマとする3本のインタビューから構成されている。語り手は立岩真也社会学者)、尾藤廣喜(弁護士・元厚生官僚)、岡本厚(『世界』編集長)の3氏。聞き手は元岩波書店の編集者である堀切和雅氏。本書全体を覆っているのは、弱者に冷酷な昨今の日本社会の空気への悲しみと怒りである。

3氏(インタビュアーの堀切氏を含めれば4氏)ともが、生存権生活保護をめぐる議論の「転倒」を指摘している点がたいへん興味深い。そうした「転倒」が当然視されるようになった背景には、新自由主義的な思考の普及を第一に指摘できる。4氏の発言をいくつか紹介しておきたい。

  • これからの、保険なり社会保障なりっていうのが、自分の将来のためであるから、この話に乗ってちょうだいというところが、唯一そのシステムを正当化するロジックであったがゆえに、逆にそれが、だったら政府じゃなくてもいいみたいな話につながってきた部分があったんじゃないか・・・。(立岩, p.18)
  • 結局は、例えばあなたもいつ障害者になるかわからないんだからね、とか、あなたがいつ病気で困窮するかわからないんだからねって説得しかないのは限界がある。今は、例えば収入の4割を社会保障負担に入れれば、4割戻ってくるっていうロジックの話ですけれども、たまたま普通に働ける人間の場合は、4割払って戻ってくるのは2割でもいいんじゃないかっていうふうに僕は思うんですね。(堀切, p.20)
  • 最低限度なるものを、これが低いだの高いだのっていうようなことをめぐって議論しなきゃいけないっていうのは悲しいなっていう感じがどこかであるんですよね。・・・ワーキングプア生活保護の人たちよりも、年間の総収入として低い、ということが起こっているのは事実ですよ。それはだけど、話が逆なわけで、だからワーキングプアに合わせましょうって話じゃないわけですよね。ワーキングプアと言われる人が、少なくとも生活保護受給世帯のラインに達する収入を得られればよいのであって。(立岩, p.28)
  • 資産があったり貯金があったり、持ち家があってしまったりすると、結局それを全部吐き出してしまってからでないと、わが国の公的扶助というのは使えない・・・(立岩, p.32)
  • どんせ制度を作ったって、制度の裏をかいたりとか、ちょっとした漏れがあるっていうことは必ず出てくるわけです。探そうと思えば少なくともある程度出てくる。それをやかましく言って、やっぱり受けすぎのやつがいるという話になっていくと、しょぼしょぼっとした話になっちゃう。(立岩, p.36)
  • 一番大きい問題は、今も問題なんですけども、資産の保有がどこまで認められるか、という問題なんです。・・・資産の保有の問題を一つ一つ議論するっていうのは、私は時代に合わないと思うんですよ。・・・一般的にみんなが持っているようなものについては、ストックは問題にすべきでないと私は考えたわけです。フロー、つまり収入の流れだけを補足しておけばいいと思う。(尾藤, pp.55-7)
  • 年金の額が低いんだから、生活保護費を下げろ、低いほうに合わせろという発想はね、まったく理解できない。発想が逆なんです。(尾藤, p.65)
  • 生活保護を受けている人が、老齢加算にしたって母子加算にしたって削減に反対して訴訟を起こしてるってことに対して、ものすごくハレーションが強いんですよ。無言電話があったりね、投書でめちゃくちゃ書かれたり。税金で食わせてもらって何文句言ってんだ。そういう意見がものすごく強いですよ。(尾藤, p.71)
  • こんな労働の状況だと、自分さえ強ければいいっていうような風潮が横行したり、いじめが起きたりしますよね。強い者がすべてだと。ずるしたってね、いい点とればいいんだと。少しでもいい大学に入るためなら友だち蹴落とさなきゃいけない。そういう世の中にしたくないって言ったって、現実にそういうふうに運用しちゃったらそうなっちゃいますよね。(尾藤, p.82)
  • 貧しいのは「自己責任」であり、「努力が足りない」「能力がない」からだ、という発想がはびこっていて、自分から声も挙げられないし、周りも応援どころか冷たく見ている。それが新自由主義という考え方が人びとの意識に浸透した結果だろう。(岡本, pp.87-8)
  • ワーキング・プアが、いくら働いても生活保護費以下の収入だ、というと、じゃあ生活保護費の方を下げましょうという馬鹿な発想になるでしょう。(岡本, p.90)
  • ほんとの自由っていうのは、僕は、ある程度生活を保障されたところでしか発生しないと思う。生きられる、生存権が守られる、最低限の生活ができるときに初めて自由という概念が成り立つし、自由な言論っていうものも成り立つ。(岡本, p.110)
  • なぜか日本人は、相手をバッシングしたら言うこときくようになるだろうと思うんだね。少年犯罪が増えた(実は増えていないのだけれども)、じゃ少年法を厳しくしようとか、危険運転をしてひどい事故を起こした、じゃ罰則を厳しくしようとか、ひどい犯罪をやったやつは死刑にせよとか、叩きのめせばいい、って単純な発想が強くなってきていると思う。(岡本, p.122)

「連帯」を忘れたバラバラの砂粒のような個人は、もはや「嫉妬」「弱者バッシング」をバネにする以外に生きてゆけないのだろうか? そういう社会に自分は生きたくないし、そういう社会を未来世代に残したくもない。何とかしなければ、と思う。

生存権―いまを生きるあなたに

生存権―いまを生きるあなたに

評価:★★★☆☆

*1:この教科書はすでに公刊されている。