乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

香内三郎『ベストセラーの読まれ方』

著者はマス・コミュニケーション史を専攻する元東大教授。2006年2月に74歳で逝去。本書は近世・近代イギリス社会における活字メディアを主題とする。ジョン・フォックス『殉教者の本』、ロバァト・バートン『憂鬱の解剖』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、トマス・ペイン『人間の権利』、チャールズ・ダーウィン種の起源』、サッカレー『虚栄の市』、オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの画像』という7冊のベスト・セラーを採りあげ、それらがどのように読まれたかを考察することを通じて、活字文化の変貌を明らかにしようとしている。

ペイン『人間の権利』を扱った第4章は、自分自身の専門(バーク研究)との関連もあって、かなり前から幾度も繰り返し読んできた章なのだが、全体を通読する機会はなかなか得られなかった。このたびようやくその機会を得た。ジョン・フォックス『殉教者の本』を扱った第1章が実に面白い。実際に読まれることは少なく、お守り(護符)として所有されていた、と言うのだ。「読まなくても(内容は大体聞いて知っている)、持っているだけで悪魔をよせつけない、精神が安定する」(p.48)という効能が期待されていたようだ。さながら今日の「積読(つんどく)」である。実際に読む予定はないものの、その本が書架に収まっているだけで、自分が賢くなったような錯覚に陥ってしまうから、何とも不思議である。

web上にレヴューがまったく見当たらないのが不思議な好著である。

評価:★★★★☆

桑原耕司『社員が進んで働くしくみ』

岐阜県に本社を置く中堅ゼネコン(1988年創業、社員数約140名)「希望社」。本社ビルの正面には「談合しない。(21世紀型建設業)」と書かれた大きな垂れ幕が下がっている。

著者は、「建築主に良い建築を安く提供する」という理念を実現するために、大手ゼネコン(清水建設)を退社し、希望社を設立した。本書は、希望社の常識にとらわれないユニークな(ユニークすぎる!?)経営についての、社長自身による紹介本である。

先の理念を実現しようとすれば、理念とは無関係に仕事をしているフリだけで給料をもらおうとする「ぐうたら社員」を雇っている余裕はない。そのため、希望社は時間に対してではなく仕事の成果に対してのみお金(給与)を支払う「完全成果主義」を採用している(p.13)。しかし、その成果主義は通常イメージされるそれとはかなり異なっている。

高賃金・高待遇を約束する従来の成果主義は、社員の会社への期待を増大させ、会社への依存度をむしろ強めてしまう危険がある。やみくもに業績を追い求めた結果、一番重要なはずの「理念」が忘却されてしまう危険すらある。理念の具現化のために希望社を作り、その手段として成果主義を導入したはずなのに、これでは本末転倒である(pp.167-8)。

希望社において「理念」は単なるお題目でない。本末転倒を防ぐためには、社員が会社からの給料以外にも収入を得られることが望ましい。会社からの収入よりも他の事業から得る収益のほうが大きくなれば、見かけの結果にとらわれず、賃金の多寡にかかわらず、「理念」を純粋に追い求めることができる。「雇用関係のない会社」が実現される。

これこそが希望社の目指すべき方向である。具体的には、「社内事業家」(p.154)を育成し、会社を踏み台にして、経済的・精神的に自立してもらい、純粋に「理念」を追い求めてもらう。一人一人の生の営みが、もはや仕事ともボランティアともつかないものになる。このようにして、「働かされない働き方」が可能となる。

この「働かされない働き方」は、本書のサブタイトルにもなっており、希望社の理念(「建築主に良い建築を安く提供する」)の精神的支柱(もう一つの理念)であると言ってよい。著者はこうした理念を今村仁司氏の『仕事』から学んだと告白している。(p.68)

これほどまでに理念を重視する会社であるから、その理念を自分のものとし、その達成のために働く人しか残れない(そうでない人を辞めさせる)ような様々な工夫が凝らされている(「自動リストラ装置」「遠心分離グループ」(p.90)など)。社員の生活を守ることよりも理念の追求を優先する会社であるから、それは時として弱者を切り捨てる弱肉強食の会社と誤解されるが、決してそうではない。

最後に、自分自身のビジネス倫理研究との関連で特に印象に残った叙述を紹介しておきたい。すでにレヴューした小笹芳央『会社の品格』*1の叙述(上司の本質的な役割)と重なっていて、たいへん興味深かった。

しかし、社員数が増え、組織が複雑化するにつれて、社員たちの声が私に届かなくなってきました。知りたい情報が上がってこないのでは、適切に問題を解決することができません。
調べてみたところ、一番の問題は「部長」という存在でした。そもそも「部長」というのはどこの会社にも当たり前にいる存在です。継続的な組織の上にあぐらをかいているのですから、改革志向がありません。
組織というのは生き物です。常に「情報」という血液の流れを良くしておかないと、すぐに体がなまってしまいます。この血液を運ぶパイプの役目をするのが、本来の「部長」の仕事なのですが、彼らはそれを果たしていませんでした。
部下から出た「部長」の無能さや無責任に対する批判、会社に対する不平不満、部下の個人的な事情や業務上の問題点などを、自分に都合の悪い情報として覆い隠していたのです。これでは「部長」の存在によって、あらゆることが止まってしまいます。
会社は、社員たちから生まれる数々の不満や要求、こうしたらもっとよくなるのではないかという改革志向によって、揺さぶられるべきものです。それによって、より良い組織に生まれ変わることができるからです。
しかし「部長」たちは、そう考えてはいませんでした。私に問題を伝えると、管理職としての自分の評価を下げてしまうと思っていたのです。それだけでなく、彼らは「部長」という職位を得ることで、高いところから下の者に対してものをいうのが当然というふるまいをしています。「部長」の職責は果たさず、ふるまいだけは「部長」なのです。こんな無能な人間の下では、いくら有能な社員を配しても人が育ちません。
このような問題が明らかになってきたため、私は大規模な組織改革を行い、「部」と「部長」を全廃させたのです。これによって、社員たちは必要に応じて私に直訴できるし、私も自分の考えをストレートに全社員に伝えることができるようになりました。(pp.81-2)

社員が進んで働くしくみ 「働かされない働き方」が強い会社をつくる

社員が進んで働くしくみ 「働かされない働き方」が強い会社をつくる

評価:★★★☆☆

城山三郎『彼も人の子 ナポレオン』

ナポレオンの生涯を描いた中編の評伝である。「あとがき」によれば、著者はナポレオンを「神の子」や「時代の子」として描くことに興味はなかった。「かねて気になる存在」であったこの人物の、「正体まで行かなくとも、ちらっとでも素顔を見てみたい」(pp.266-7)とのこと。

著者は、ナポレオンの天性の「集中力」、「率いる」ことへの飽くなき執念を、それらと背中合わせの「幼児性」とともに描き出す。そして、「コルシカ」や「共和制」といった大義を衣裳同然に取り替えていく態度に慨嘆する。同じ著者が『わしの眼は十年先が見える』*1で描いた大原孫三郎の生涯とのコントラストがたいへん興味深い。

彼も人の子 ナポレオン―統率者の内側

彼も人の子 ナポレオン―統率者の内側

評価:★★★☆☆

佐野眞一『東電OL殺人事件』

渋谷区円山町のラブホテル街に隣接したアパートの一室で、39歳の女性が絞殺された。このニュースが世間の興味を惹いたのは、被害者が慶応大卒業後に東京電力に入社するエリートコースを歩んでおり、殺害された当時には管理職の地位にあったにもかかわらず、夜は夜で娼婦としての別の顔を持っていたからであった。彼女の最後の客であるネパール人が強盗殺人容疑で逮捕された。本書は、この衝撃的な事件の、事件発生(1997年3月)から被疑者の無罪判決(2000年4月、東京地裁)に至るまでを追跡したノンフィクションである。

本書は佐野氏の著作の中ではすこぶる評判が悪い。なぜなら、本書の読者の大半は被害者の女性の心の謎――なぜ売春行為を始めたのか?なぜ1日4人というノルマを自分に課したのか?――の解明を期待しているのに、それがまったく解明されず、記述の多くが被疑者のネパール人の無罪の立証にあてられているからである。著者は、被害者の女性の心の謎に迫る事実を発掘したいという衝動に駆り立てられながらも、結局、発掘することができず、謎を謎として書き残す以外になかったようである。数学で「解なし」が正解の場合があるが、この事件の場合も「結局、わからないものはわからない」が著者の提示する解答のようである。確かに欲求不満が残る。僕自身、読み始める前の期待が大きかっただけに、肩すかしを食らわされた気分である。

実はこの事件には続きがある。本書は被疑者のネパール人が東京地裁で無罪判決を勝ち取ったところで終わっているが、その後、東京高裁での控訴審で逆転有罪判決が下され、最高裁で上告が棄却された結果、無期懲役が確定している。もしそのネパール人が真犯人だったとすれば、本書を読むかぎりでは、これといった殺害の動機が見当たらず、ますますわからないことが増える。欲求不満が高まる。

読書はエンターテイメントだ。読後感はすっきりしたものでありたい。しかし、現実の複雑さがそれを許さない。本書はノンフィクション文学の困難さを典型的に表現しているように思われた。

東電OL殺人事件 (新潮文庫)

東電OL殺人事件 (新潮文庫)

評価:★★☆☆☆

三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊』

新聞記者である大親友の初めての著書であり、ベルリン支局特派員時代の仕事の果実である。刊行直後に一度読んでいるが、このたび再読してみた。

ナチス政権下のドイツにも日本の「カミカゼ」に類似した特攻隊組織が存在した。本国ドイツでも知られることの少ないこの「エルベ特別攻撃隊」の真実を、生き証人たちの証言をもとに描き出そうとしている。

実は《ヒトラー特攻隊》というタイトルは正確でない。ヒトラーは特攻命令を下していないのだ。本書を読んだすべての読者に印象にいちばん強く残るのは、「自由意思の尊重」の名のもとに特攻命令の決断を躊躇するヒトラーの優柔不断さであろう。

六百万人のユダヤ人を虐殺した張本人は、具体的な「だれか」に死を命じることからは逃げ回った。数が大きなものに対しては恐るべき狂気を発した男だったが、ひとりに対しては臆病だった。(p.80)

「私の政治信条は、祖国のために戦ったひとりのドイツ人であること、それだけです」(p.219)と言い切る元攻撃隊指揮官ハヨ・ヘルマン(非ナチス党員、インタビュー当時95歳)の言葉も鮮烈だ。こうした事実は、ドイツの戦争責任をナチスとの直接的な関連だけで考えてよいのだろうか、という問題提起を必然的に含むものだろう。

さすが新聞記者と唸らせる簡潔で流麗な文体。学者の文章とは違う。見習いたい。

ヒトラーの特攻隊――歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち

ヒトラーの特攻隊――歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち

評価:★★★★☆

相原茂『はじめての中国語』

タイトル通り、中国語の入門書である。新書サイズなので、網羅的でありえないが、実に簡にして要領を得た入門書にできあがっている。ロングセラーになるわけだ。

十数年前、相原先生ご担当の「ラジオ中国語講座」を熱心に聴講した。そのかいあってか、文字から相原先生の声が自然と聞こえてくる。楽しく読み通せた。実は十数年ぶりの再読になるのだが、まったく記憶に残っておらず、初めて読む場合と変わりなかった。

初級文法の説明が実にうまい。相原先生は初級文法の要を「補語」の正確な理解に置いておられるようだ。英語の“I am a student.”はSVC構文だが、中国語の“我是学生。”はSVOの構文(「学生」は主格補語ではなく目的語)である。なるほど、なるほど。痒いところにまで手の届く説明だ。187ページ以下の様態補語「得」の説明は特に素晴らしい。信頼できる入門書である。

はじめての中国語 (講談社現代新書)

はじめての中国語 (講談社現代新書)

評価:★★★★★

松尾理也『ルート66をゆく』

本書は、産経新聞外信部記者が、ルート66と呼ばれるシカゴからロサンゼルスまで通じる有名な道路を旅しながら、「ハートランド」と呼ばれる中西部の「保守」地域に暮らす人々の生の声をレポートしたものである。

保守思想を研究してかれこれ20年近くになるが、アメリカの「保守」概念に限定しても、その意味内容の多様さはいまだに僕を困惑させる。その多様さは「一言で説明する」ことを許してくれないきわめてやっかいなしろものであるが、きわめて大ざっぱに言えば、アメリカの「保守」概念には、経済的基準によるものと、社会的基準によるものとがある。実際の現場では両者が複雑に絡まり合った形で表出するのである。

佐和隆光の著作(『経済学とは何だろうか』『経済学における保守とリベラル』など)は、経済的基準によるアメリカの「保守」を知る絶好の手引書であろう。他方、中岡望アメリ保守革命*1は、経済的基準のみならず社会的基準にも目配りしたすぐれた解説書であるが、中央政界の動きを重視した叙述になっているため、中央政界を牛耳るインテリ層に批判的な「草の根保守」層の思想と行動をうまく描き出せていない嫌いがある。1期ゼミのテキストとして読んだ実哲也『米国草の根市場主義―スモールプレーヤーが生むダイナミズム』は、そうした「草の根」保守層の姿を浮き彫りにした傑作ルポだが、さすがに10年以上前に書かれたものであり、内容がかなり古くなってしまっている。本書は、あたかもその続編であるのように、僕の心に迫ってきた。「草の根保守」層の思想と行動を見事に描き出している。これも文句なしの傑作だ。

本書が伝える「草の根保守」層は、経済的利益よりも伝統的・宗教的価値を重視する、独立心旺盛で敬虔で質実剛健な人々である。イギリス本国の「押しつけ」を嫌って独立した米国の建国理念にたえず回帰しようとするがゆえに、連邦への権力集中を良しとせず、中央政府からの「押しつけ」(ばらまきを含む)を極端に嫌い、銃規制に反対して銃で自衛する権利を訴える。子どもの教育においては、公立学校に頼らず、家庭教育を重視する。教会を中心とした地域のつながりを「神のコミュニティー」として大切にしながらも、その敬虔さゆえに進化論を否定し中絶や同性婚に反対する彼らには、たしかにいくぶん頑迷なところもある。しかし、彼らは決して好戦的でも無知蒙昧でもない。

2004年の大統領選挙でブッシュが再選を果たした際、「草の根保守」層がブッシュを支持したことは確かである。しかし、「アホでマヌケ」(マイケル・ムーア)なブッシュが当選できたのは、「草の根保守」が「アホでマヌケ」だったからではない。「草の根保守」の目から見れば、「ブッシュは、社会問題の面でやや保守的という程度で、外交的にはグローバリストであり*2、財政的には大きな政府主義者だ。だから保守でもなんでもない。リベラリストだ」(p.133)。彼らのブッシュ支持はきわめて消極的なものだった。彼らは「気乗りしない支持者(リラクタント・サポーター)」にすぎなかった。

「気乗りしない支持者(リラクタント・サポーター)」として、ブッシュに投票したロンは、みずからの投票行動を、ブッシュの側近中の側近として選挙戦をとりしきったカール・ローブ上級顧問(当時)の戦略に乗せられた結果だと認める。
「保守という絶対に引きつけておきたい層に対して、中絶とか、同性結婚とかいうカードを出してきて、『細かい不満をいっている場合ではありませんよ。ブッシュにいろいろ不満はあるかもしれませんが、ケリーが通ると、そんなことすらいっておれなくなりますよ』と危機感をあおり、味方につけたわけだ」(p.118)

上の引用にもあるように、中絶問題はアメリカの保守の本質を考える際の最重要トピックの一つである。

中絶問題は、保守かどうかをはかる基準のひとつである。そのほかにも、同性婚反対、家族の価値の回復、公教育の場での祈りの復活、ポルノ追放などが、米国において保守か否かをはかる目安にされる。これらの社会的基準とは別に、「小さな政府」「減税」など経済的な基準もあるのだが、現在は社会的基準がどんどん強まる勢いにある。(p.113)

公教育に対する態度も同様に重要である。このトピックをめぐっては、アメリカの保守と日本の保守の相違があらわになる。

日本では、保守の側は、教育による国民としてのアイデンティティの確立を求める。対して、リベラル側は個人に価値をおき、教育もややもすれば不当な抑圧であり国家の押しつけだと感じる。・・・。
対して、アメリカのホームスクール運動は、これも右から左まで多様であるものの、圧倒的に保守の側によって主導されている。それは根本的に、政府の権限は最小限にとどめられるべきで、個人の自由と独立は最大限に尊重されるべきだという保守の理念と分かちがたく結びついている。・・・。
・・・米国では公立離れのためのエクスキューズは必要なかった。なぜならば、中流以上の白人層には強力な道徳的バックボーン、つまり思想がもともと存在したからである。
それは、米国建国の理念にまでさかのぼる保守の理念であったといえるだろう。「自由」と「独立」を尊重し、自分の手の届く小さなコミュニティーですべてをまかなうべきだとする米国の価値観を推し進めると、公教育とは政府による価値観の押しつけであるという考えが生まれる。そこから、子供は親によってこそ教育されなければならないという結論が自然に導きだされてきた。
・・・。
そして今も、米国のホームスクールは保守運動の一翼として日々拡大を続けている。(pp.123-9)

ホームスクール運動に象徴されるように、今やアメリカの保守思想は、部分的に、急進的な反体制運動の性格を帯びている(pp.129-30)が、この点は保守思想の本質に「漸進的改革論」を見る僕の理解――ただし近世イギリス保守思想の研究にもとづく理解――と対立するものである。

「草の根保守」層は不法移民に対してきわめて厳しい態度をとる(武装市民による国境管理)が、それは決して人種的偏見にもとづくものでない。むしろその逆で、かつての黒人奴隷制度が米国の根本理念を傷つけてしまったことへの反省にもとづいている。

その論理はこうだ。黒人の奴隷労働は、安価な労働力に依存し特権階級が富を独占する南部経済の構造を維持するために導入された。一方、現在の不法移民も社会の底辺の単純労働をあてがわれている。ということは、ともに利益追求のために自主独立、自由平等という米国の理念を犠牲にした結果だ。欲に駆られて弱者を搾取するために作り上げた構造だ。
「米国は金もうけだけを考えていていいのか。豊かな暮らしを手放したくないがために、奴隷制にまで手を染めた過去のあやまちを、米国は今一度繰り返そうとしているのではないか。米国民は貧しくともみずからの手で耕し、ささやかな幸せに充足すべきではないのか」。ジムはこう力説するのだ。(pp.183-4)

本書を読むと、《保守=大きい政府=共和党 ⇔ リベラル=小さい政府=民主党》といった単純な二元論にもとづく議論がいかに不十分なものであるかが、よくわかる。一例を挙げよう。2004年のオクラホマ州上院選に元阪神タイガースランディ・バース民主党から出馬し、接戦を制して当選しているが、彼もまた「草の根保守」層の一人である。「オクラホマでは共和党であれ民主党であれみんな保守的だ」(p.121)。

僕が世界でいちばん好きな映画である『オズの魔法使』の舞台は、ルート66が通るカンザス州だった。あの映画の登場人物たちこそ、「草の根保守」層の典型なのだろうか。そう思うと、親近感が増してくる。There's no place like home... このドロシー(『オズ』のヒロイン)の台詞は、息子の難病治療のためにシーズン途中に帰国して阪神を解雇されたバースの心境でもあっただろう。

ルート66をゆく―アメリカの「保守」を訪ねて (新潮新書)

ルート66をゆく―アメリカの「保守」を訪ねて (新潮新書)

評価:★★★★★

*1:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20100101

*2:アメリカ保守の外交政策は伝統的に孤立主義である。(p.115)

根井雅弘『市場主義のたそがれ』

来年度の「経済学説史」講義では、「新自由主義ネオリベラリズム)」を主題として講じる予定である。必然的にミルトン・フリードマンをキー・パーソンの一人として採りあげることになるので、予習を兼ねて読んでみた。

本書はフリードマンの経済学説の解説書と言うよりも、フリードマンを総帥とする「現代シカゴ学派」がアメリカ経済学界を席巻していくプロセスを、「現代シカゴ学派」以前の(フリードマンの師であるナイトやヴァイナーらが率いた)「シカゴ学派」と対比しつつ描き出そうとしている。

これまで読んだことのある根井氏の著作*1と比べると、本書のできはいま一つ。全体のまとまりが悪く、異なる機会に書かれた文章を無理やり一冊の本に押し込んだかのような印象が強い。著者の力量をもってすれば、もっと深い議論が展開できたはずだ。個人的には、第4章「フリードマン以前の「シカゴ学派」――F・ナイトの「適度な懐疑主義」」の議論を一冊の本に拡張してもらいたいのだが・・・。

市場主義のたそがれ―新自由主義の光と影 (中公新書)

市場主義のたそがれ―新自由主義の光と影 (中公新書)

評価:★★★☆☆

有森隆+グループK『「小泉規制改革」を利権にした男 宮内義彦』

宮内義彦オリックス会長は、海部・細川・村山・橋本・小泉の各政権において、規制緩和を促進するための政府の委員会に関わり、歴代内閣の規制緩和の指南役を務めてきた。とりわけ、小泉政権においては、竹中平蔵と並んで、日本全体の規制緩和の総指揮官として君臨してきた。

規制緩和による参入障壁の破壊は、既得権益にあぐらをかき、経営努力を怠った業者(企業)を淘汰し、新規参入業者(企業)の意欲とアイデアで市場を活性化し、拡大する。「自由な競争」と「新たな発想」が「ニュー・ビジネス」を生み出す。これが規制改革の本質だ。このように宮内は強調した。

しかし、これは表向きの理屈にすぎない。彼には「政商」として別の顔があった。彼は小佐野賢治のような政府要人への裏工作を得意とするアウトサイダーではなく、規制緩和に関する情報を誰よりも早く入手できるインサイダーであった。規制緩和に伴う新規分野への進出の成否は、「いかに速く」、「確実な」情報を手に入れるかにかかっている。「規制改革は最大のビジネスチャンス!」とばかりに、規制緩和された分野にオリックスの関連会社をいち早く参入させ、事業の拡大を図った。

要するに、規制緩和とは、既得権益の消滅でなく移転でしかなかった。宮内は移転された新たな既得権益を手に入れようとしたにすぎない。「自由な競争」は隠れ蓑でしかなかった。その証拠に、宮内は規制緩和を声高に叫びながら、自らのビジネスにとって障害となりそうな場合は、新規参入を先頭に立って阻止した。そこには明らかな言行不一致があった。

本書はこのような宮内の矛盾に満ちた言行を様々な角度から検証している。セカンドハンドの素材に多く依拠しているせいか、ノンフィクションとしての迫真性はどちらかと言えば弱い。しかし、オリックス村上ファンドライブドアソフトバンクエイチ・アイ・エス楽天、読売新聞、エンロンなどとの出資関係や友好・敵対関係が整理できたのはありがたかった。リース業の基本的なしくみ、混合診療が抱える問題点もよくわかった。オリックスの収益の柱がパチンコ店とラブホテルである事実はとても興味深かった。しかし、何より、長年近鉄球団のファンだった者としては、球団合併の舞台裏を描いた第5章を涙と怒りなくしては読み通すことができなかった。本当に何とかならなかったのか!

本書ではひたすらダーティに描かれている宮内氏。公平を期すために、氏の『経営論』もそのうちに読まなければ・・・。

「小泉規制改革」を利権にした男 宮内義彦

「小泉規制改革」を利権にした男 宮内義彦

評価:★★★☆☆

江上剛『非情銀行』

周知のように、バブル経済の崩壊以後、わが国の大手銀行は生き残りをかけて巨大合併へとひた走った。いわゆるメガバンクの誕生である。本書はこの時代の大手銀行の闇を題材とした小説である。

表向きはフィクションということになっている。しかし、著者は、デビュー作である本書の執筆時、みずほ銀行の現役支店長であり、覆面作家としてデビューした。このような事情があるだけに、本書に描かれている金融業界の闇の何もかもがフィクションだとは到底思われない。最高権力の掌握を目指して非情なまでに過酷なリストラを推進する人事担当常務中村。中村の身代りに罪を被ったにもかかわらずその中村に裏切られ、非人道的なリストラによって廃人と化してしまい、自ら命を絶つエリート行員岡村。東光・大栄両銀行の合併後の主導権争い。それを食い物にする大物総会屋九鬼との抜き差しならない関係。さらにその背後に見え隠れする大物代議士大月の影。*1それらの描写はあまりにもリアリティに満ちている。かなり高い割合で実話を織り交ぜているような気がしてならない。

ストーリーは比較的単純で、「岡村の仇を討ってやる!」と正義感に燃える竹内ら中堅・若手社員グループが、悪玉たちの化けの皮をはぐことに成功して終わる勧善懲悪物語である。登場人物の性格描写がステレオタイプであるし、文章もこなれているとは言い難い。そういう点に不満が残るが、それらを相殺して余りあるリアリティとテンポの良さが本書の魅力であり、実際、550ページもの大著であるにもかかわらず、僕はたった2日で読み終えてしまった。中村常務の冷酷さには幾度も背筋が震えた。経済小説であると同時にホラー小説かもしれない。いや、経済小説は本質的にホラー小説なのかも。

金融業界に興味のある大学生にとって、本書のような作品を通じて、大学の金融論の授業で(おそらく)学べない世界を学生時代のうちに知っておくことは、間違いなく有益であろう。実際、僕自身、高校・大学時代に経済小説を読み耽り、経済を学ぶことの面白さに目覚め、今日に至っている。

非情銀行 (新潮文庫)

非情銀行 (新潮文庫)

評価:★★★★☆

*1:どう読んでも、故H本R太郎元首相しか思い浮かばないのだが。「民自党は与党第一党で大月はその中でも最大派閥の長であった。なかなかの二枚目で首相も経験したが、財政再建路線が時代に受け入れられず不況を引き起こして退陣した。そして派閥の長に返り咲き、再登板を狙っていた。(p.318)

中野雅至『「天下り」とは何か』

自力(公募)で大学教員に転身した元厚労省キャリア官僚による「天下り」解説書。

著者は、天下りの問題点を十分に認識しつつも、それが一定の合理性を伴って形成され存続してきた制度である以上、簡単になくすことができない、と主張する。この主張が本書の背骨にあたる。

民間企業であれば、たとえ再就職を会社が斡旋してくれたとしても、それは人事としては扱われません。定年間際の半導体部門の部長の再就職先が決まらないからといって、半導体部門の三十歳の人事異動が決まらないということはないでしょう。
これに対して、役所の場合には、幹部クラスの再就職先が決まらないと現役の人事まで停滞してしまうということが起こります。役所には限られたポストしかなく、民間企業と違って自由にポストを増やすこともできないからです。また、予算による制約も受けています。古今東西の歴史を見ても、役所は放置しておくとどんどん組織を肥大化させてしまうため、国会や内閣によって組織・ポスト・予算が厳しくコントロールされているのです。
しかし、組織としての活力を維持するには、優秀な若手を早く出世させて経験を積ませなければなりません。いつまでも年配者に居座られると、若手のやる気をそぐことにもなります。
そこで登場するのが、・・・「早期退職勧奨」という独特の雇用慣行です。これは六十歳の定年を待たずに役所を辞めてもらうことで、早い話が「肩たたき」です。言うまでもなく、辞めてもらうためには次の再就職先を斡旋しなければ、辞めるほうだって困ってしまいます。だから、再就職先と早期退職勧奨はセットになっています。これが天下りを生む根本的な要因です。(pp.42-3)

そして、天下りの実態についても、省庁、キャリアとノンキャリア、国家公務員と地方公務員などの違いに留意しながら、詳しく説明している。

超エリートをスピード出世をさせるために天下りが必然的に要請されるのは理解できるとしても、存在意義の乏しい非営利法人が天下り先として際限なく増殖していく様子は、さながらホラー小説の趣がある。著者は「古今東西の歴史を見ても、役所は放置しておくとどんどん組織を肥大化させてしまうさせてしまうため、国会や内閣によって組織・ポスト・予算が厳しくコントロールされているのです」と述べたが、だからと言って、役所の外の組織であればどんどん肥大化してもかまわないことにはならないだろう。もちろん、そうなのだ。この点は著者も天下りの弊害として十分に認識している。しかし、非営利法人への天下り規制は、抜け穴だらけで、実効性に乏しい。どんなに強い規制を導入しても、手を替え、品を替え、天下りは生き続けるだろう。では、いったいどうすればよいのか? 著者の結論はこうである。

・・・忘れてはならないのは、天下りのそもそもの発生要因は役所の人事労務管理にあるという点です。つまり究極的には、早期退職勧奨や年次主義をなくし、全員が定年まで勤めたとしても活力が衰えないような組織を作るよりほかに、天下りを根絶するのは難しいということです。(p.169)

天下りには発生要因があり、また長い歴史があります。そうである以上、その発生要因を取り除かない限り、この病との闘いは終わらないでしょう。
規制や感情的なバッシングによって、一時的に(あるいは表面的に)は効果を上げられるのかもしれませんが、それだけで済まないことは歴史が証明しています。天下りという名の病原は非常にしたたかで、その時々の状況に応じて姿かたちを変えながら脈々と生きのびてきたからです。
つまり、考えられる最善の処方箋は、役人が納得して定年まで働けるような仕組みか、官民の人材が自由に行き来する社会をつくることしかありません。遠回りのようですが、本気で根絶しようとするのであればそちらに知恵を絞るべきでしょう。(p.179)

著者は、官僚出身でありながら、天下りに対して、擁護からも批判からも距離を置いた公平な叙述を心がけている。好感をもって読み進めることのできる良書であるように思われる。

「天下り」とは何か (講談社現代新書)

「天下り」とは何か (講談社現代新書)

評価:★★★★☆

西部邁『保守思想のための39章』

西部氏は僕の思想形成に最も大きな影響を与えた知識人の一人である。学部学生時代、『経済倫理学序説』『大衆への反逆』『貧困なる過剰』『新・学問論』『生まじめな戯れ』といった著作を貪るように読んだ。そして、大学院の指導教員として西部門下の佐藤光先生を選び、研究対象としてエドマンド・バークに代表される西洋保守思想を選んだ。

しかし、これだけ長い年月にわたって保守思想とつきあっていると、僕なりの保守思想観が必然的に形成されてわけで、自分の専門分野である手前、他の研究者の保守思想観との違いが気になって仕方がない。たとえそれが小さな違いであっても、かえって無視できない。大きな影響を受けてきた西部氏の保守思想観に対してもそうである。

西部氏と僕の保守思想観の(ほとんど唯一と言ってもよい)差異は、保守思想が国家および地域といかなる関係を有するか、という問題をめぐる差異である。西部氏は保守思想の核心として地域より国家との関係を重視している*1が、僕は国家より地域との関係を重視している。この点は僕の保守思想理解の核心に関わるので、簡単には譲ることができない。僕の理解では、本書の第22章「漸進の知恵」は、視覚性という論点を介して、地域景観の問題へと連なるものなのだ。*2第10章「愛着の必然」において、次のように述べられているからこそ、自分の見解への確信が余計に強まる。

・・・保守思想は、愛着を寄せる対象が破壊されることを強く懸念する。
[しかし]・・・愛着するものへの「記憶」が確実に存在していれば、それを復活させるような変化については、それを利益とみなすのが保守思想である。したがって、変化一般を嫌うのが保守思想だというのは間違いである。
・・・愛着という心理的要素に愛着を覚えるということは、行為の目的よりも手段により強い愛着を覚えるということでもある。目的には理想の要素が強く、理想は(手段と比べて)より抽象的、普遍的そして一般的である。それにたいし愛着はより具体的、個別的そして特殊的である。そうならば手段への愛着が・・・優越して当たり前であろう。(pp.57-8)

地域と国家、どちらが具体的・個別的で、どちらが抽象的・普遍的であろうか? 万人に通用する一義的な答えはありえないかもしれない。西部氏自身も、「保守思想は、その根本に地域共同体への愛着を抱懐している。そのため、リージョナリズム(地域主義)に親近感を持ってきた。したがって保守思想が国家にたいしてどういう態度をとるかは、場合によって様々である」(p.152)と述べている。しかし、姫路に生まれ、京都で育ち、エジンバラに第三の故郷としての愛着を感じている僕にとって、答えは明白である。自家撞着が過ぎるだろうか? 

ともあれ、昔からそうだが、西部氏の著作からは大きな知的刺激を受ける。体系的であることを拒もうとする保守思想をこれだけ包括的に捉えることのできる思索者は西部氏以外にはほとんど見あたらない気がする。

保守思想のための39章 (ちくま新書)

保守思想のための39章 (ちくま新書)

評価:★★★★☆

*1:愛国心」をめぐる西部氏の見解については、田原総一朗西部邁姜尚中愛国心』が参考になる。旧「乱読ノート」2003年8月 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nakazawa/reading2003.htm

*2:詳しくは、近刊の拙稿「アダム・スミスにおける視覚と道徳と経済――堂目卓生著『アダム・スミス』に寄せて――」(『関西大学経済論集』第59巻第4号)をお読みいただきたい。

清水昭男・広岡球志『マンガ なぜ巨大企業はウソをついたのか?』

かつて売上高で全米第7位を誇った世界有数のエネルギー企業エンロンは、2001年12月に634億ドルもの負債を抱えて破綻した。本書はこの大企業の膨張と破綻のプロセスをわかりやすく(マンガなので当然だが)描き出している。

投機的な取引に失敗し、損失を連結決算対象外の子会社(SPE、特別目的組織)に押し付けることで、財務状況の健全性を装い、株価を高値へと操作し続けるという手口は、典型的な粉飾決算の手口(しかも会計事務所も共犯していた)で、何のドラマも感じられない。しかし、マクロ経済におけるバブル経済の膨張と破綻と同じで、忘れた頃に必ず再演されるこのような悲劇とも喜劇ともつかない三文芝居こそ、人間の欲深さと愚かしさを我々に反省させ、「健全な経済とはどのようなものであるべきか?」という問題を我々に思い出させてくれるものだろう。

評価:★★★★☆

佐藤健志『本格保守宣言』

もっと高い評価が与えられるべき本、もっと話題になってよい本だと思う。Amazon.co.jpに読者レヴューが3本寄せられているが、いずれも本書にきわめて低い評価しか与えていない。とても残念だ。かれこれ20年近く「近代保守主義の祖」バークの研究をしてきた立場からすれば、本書ほど保守思想の真髄を正しく理解している著作はないように思える。本書に批判的な読者は、拙著『イギリス保守主義の政治経済学』に対しても、「こんなの保守じゃない。保守の名を語った『ニセモノ保守』だ」と批判するかもしれない。裏を返せば、僕の保守思想理解は本書にかなり近い。このレヴューがそういう前提で書かれたものであることをご容赦いただきたい。

まず、「保守」なるものを考える際の出発点が、僕とまったく同じである。著者は政治的な立場としての保守をいったん括弧に入れることから議論を始めている。

・・・保守とは、もともと政治的な立場を指す概念ではない・・・。たとえば『広辞苑』は、この言葉の意味として、「たもち、まもること。正常な状態などを維持すること」をまず挙げ、「機械の保守」という表現を引き合いに出す。つまりは「保守点検」や「保守サービス」という場合の「保守」だが、より普遍的な形で定義するなら、次のようにまとめられよう。
――特定のシステムに関し、年月の経過や環境の変化にかかわらず、望ましいあり方が持続的に成立するように努めること。
・・・機械の「保守サービス」とて、いつでも点検ですむとは限らず、故障の修理や、新しい機種との入れ替えを意味することまである・・・。
保守をめざすことと、改革を志向することは必ずしも矛盾しない。・・・。
保守とはまずもって「正常な状態などを維持すること」だったのだから、それを現状維持と同一視するのは・・・論理的な整合性に欠ける。(pp.18-21)

「保守」的な「改革」があるのなら、その真髄は何か? それは「反急進主義」である。

・・・抜本的な改革を迅速に行えば行うほど、社会のあり方は望ましくなるはずだとする急進主義の姿勢は、(よしんば「保守派」によって唱えられようと)保守の精神とは矛盾する。(pp.21-2)

抜本的改革は「システムを根底より作り直そうとする」性格上、急進主義に陥る危険を常にはらむ。保守主義的な発想からすれば、改革を行う際であっても、既存のシステムはできるだけ活かされるべきなのだ。・・・。
現在必要なのは・・・「抜本」と「急進」の切り離しをはかることではないだろうか。要するに「システムを根底より作り直そうとする」姿勢を、「改革を行う際であっても、既存のシステムをできるだけ活かす」姿勢に近づけてゆくのである。(p.119)

この「抜本」と「急進」の切り離し(p.119, 124, 125, 140, 150, 172, 189)、あるいは、「急進主義の不可能性と抜本的改革の不可避性」(p.125)こそ、著者が擁護に務める保守概念――「本格保守」――の基本テーゼである。このテーゼの意味するところは、「社会システムの改革は、規模とペースの両面について適正範囲を守りつつ進められるべきだ」ということにほかならない。このテーゼこそが「本格保守」と「公式(→ニセモノ)保守」とをわかつ分水嶺となる。

「公式保守」は、市場原理による競争の強化や、自己責任の原理の確立など、自由主義的なシステムの急進的な導入を説く(→グローバリズム)一方で、改憲という抜本的改革を、できるだけ速やかに、つまり急進的に実行するのが望ましいと主張する(→国家主義)。このような「抜本」と「急進」との混同、(グローバリズム国家主義との)トレードオフ関係への無自覚こそが、「公式保守」を特徴づけており、その「立場は、近代的な進歩主義の変種にすぎず、保守本来のあり方からかけ離れている」(p.204)。

「本格保守」は、抜本的改革が急進的改革へと陥ってしまわないように、慎重な配慮を怠らない。迅速さとは焦りの同義語なのだ。また、改革の適正範囲を具体的に見定めるために、「トレードオフの構図」を重視し、必要とあれば妥協や譲歩も厭わない。

・・・本格保守は、容易に「正解」を提示しがたい問題の場合、「トレードオフの構図」を考察することを通じて、べストの選択をなす手がかりとするのだ。
・・・トレードオフは「いかに賢く立ち回ろうと、あちらこちらを同時に立たせることはできない」という前提から出発する。
・・・警戒すべきは、「人間は物事をいくらでも良くできる」とする進歩主義的な発想にとらわれ、「あちらもこちらも全て立つ(=いいところどりが好きにやれる)」かのごとき錯覚に陥ることなのだ。(pp.172-8)

著者が挙げる保守的改革の具体例については、多くの反論が予想される。例えば、憲法問題において、改憲ではなく条文解釈の変更に徹するのが本格保守の立場である、と著者は主張する(pp.118-23)。保守主義の故国であるイギリスの憲法は、憲法典として制定されていない不文憲法判例や慣習の集積)であるから、このような解釈が引き出されるのはむしろ当然であるように僕には思われる。著者は18世紀イギリスの保守思想に対する理解に充実に思索しているのだ。憲法問題以外にも、経済政策のあり方に関して、いくつもの興味深い提言がなされている(173ページ以下)。

バークの保守思想(およびその背景であるフランス革命)についての学識は正確かつ深い。専門家である僕もしばしば感嘆させられた。また、蛇足ながら、このような保守思想理解が著者自身のダイエット経験から引き出されていることも、たいへん興味深かった。

拙著『イギリス保守主義の政治経済学』の保守思想理解が宗教論を本質的に欠いていることに対して、友人の同業者Iさんから「世俗的すぎる嫌いがある」とのコメントを頂戴したことがあるが、本書においても宗教が議論の前面に出てくることはない。また、保守すべき価値それ自体は明示されず、あくまで保守する方法(態度)が議論の対象とされている。どこを取り出しても、本書と拙著は似ている。あまりの符合に僕自身が驚いている。

本格保守宣言 (新潮新書)

本格保守宣言 (新潮新書)

評価:★★★★★