乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』

新自由主義市場原理主義)のバイブルとして名高いフリードマンの主著の新訳。自由市場の利点を様々な角度から解き明かし、国家権力(政府)の市場への恣意的な介入を厳しく批判している。

本書(初版)の公刊は1962年だが、「まえがき」によれば、本書のもとになる講義は1956年6月に行われたらしい。当時はケインズ経済学の黄金時代であり、フリードマンの主張は異端視されていた。しかし、半世紀の間に、両者の立場は完全に逆転した。ケインズ経済学の権威の失墜とともに、フリードマンは復活した。半世紀以上も前にフリードマンが主張した「教育バウチャー」(第6章)、「企業の社会的責任」(第8章)、「一律的な比例課税」「負の所得税」(第10章)などは、当時のアメリカよりも今の日本においてのほうが、ホットなトピックであると言ってよいだろう。

フリードマンの経済思想については、様々なテキストで紹介されることが多いので、おおよそのことは知っていたが、やはり彼自身の著作を直接読んで知ったことも多い。いちばん強い印象を残したのは、ユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれたという彼の出自が、彼の市場擁護と密接に関係していたことである。

たとえばパンを買う人は、小麦を栽培したのが共産党員か共和党員か、民主主義者かファシストかなど気にしない。パンに関する限り、黒人か白人かも気に留めないだろう。この事実から、人格を持たない市場は経済活動を政治的意見から切り離すこと、そして経済活動において、政治的意見や皮膚の色など生産性とは無関係な理由による差別を排除することがわかる。
いまの例からわかるように、現在の社会において競争資本主義が維持され強化されたとき最も恩恵を受けるのは、黒人、ユダヤ人、外国人など少数集団である。こうした少数集団は、多数集団から疑惑の目で見られたり憎悪の対象になったりしやすい。にもかかわらず、じつに逆説的な現象だが、自由主義に敵対する社会主義者共産主義者には、これら少数集団に属す人が目立って多い。彼らは、市場の存在によって多数集団の威圧的傾向から守られていることを認めず、いまなお残る差別は市場のせいだと勘違いしている。(pp.60-1)

この引用は総論的な第1章からだが、彼は差別に関する単独章(第7章)も別途設けており、差別という問題を非常に重要視していたことがうかがえる。市場が時に暴力的であることは確かだが、国家権力による暴力(ホロコーストを想起せよ)に比べれば取るに足らない、という認識が彼にはあったのだろう。

本書は、ミル『自由論』、ハイエクの『隷従への道』と並んで、リバタリアニズムの三名著と呼ばれているらしい。実際、若き日のフリードマンが『自由論』から多くを学んだことは、伝記的研究からも知られている。しかし、『資本主義と自由』にミルの名前はただ一度登場するだけで、しかも参照されている著作は『自由論』ではなく『経済学原理』である(p.307)。このことは何を意味するのだろうか? たいへん興味深い。最近ずっとこの問題を考えている。

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

評価:★★★★★

岩崎夏海『もしも高校野球の女子マネージャードラッカーの『マネジメント』を読んだら』

今では知らない人がいないであろう100万部突破のベストセラー。8期(4回生)ゼミのテキストとして選んだ時点では、まさかここまでの大ヒットになるとは想像だにしなかった。

その内容は、タイトルから予想できるように、高校野球の女子マネージャーがたまたま経営学ピーター・ドラッカーの『マネジメント』と出会い、そこに書かれている「マネジャー」という存在を自分のことだと勘違いして、本の通りに野球部のマネジメントを進めるうちに、野球部がどんどん強くなり、最後には甲子園出場を果たしてしまう、という筋書きの青春小説である。著者は秋元康の弟子にあたる放送作家で、本書がデビュー作にあたる。

本書のすべてがnakcazawaゼミのコンセプトに合致している気がする。「過去の偉大な学説を現実の生活に応用するとどうなるか?」という発想自体がnakcazawaゼミらしい。また、ゼミのテーマとして「あたりまえを問いなおす」を掲げているわけだが、「あとがき」の著者の言葉は、まさにその「問いなおし」の格好の例である。ゼミ生には著者が抱いたような素朴な疑問を大切にしてもらいたい。

それ以前から、ぼくは「マネジャー(あるいはマネージャー)」という言葉については、とても気になるところがあった。というのも、日本と欧米とでは、その意味するところに大きな違いがあったからだ。
例えば、アメリカ大リーグで「マネジャー」といえば、それは「監督」のことを指す。しかし日本では、真っ先に思い浮かぶのは「高校野球の女子マネージャー」だ。しかもそこには、「スコアをつけたり後片づけをする」といった、下働き的なニュアンスさえ含まれている。つまり、英語圏のそれとは、責任や役割において、指し示すものに大きな違いがあるのだ。(pp.269-70)

個人的にいちばん興味深く読んだのは、第6章「みなみはイノベーションに取り組んだ」に出てくる「組織の最適規模」の話である。実は僕はこのトピックについてかつて論考を発表したことがある(「組織と仕事:誰のために働くのか?」、佐藤方宣編『ビジネス倫理の論じ方』ナカニシヤ出版、所収)。組織が目指すべきは規模は、「最大」ではなく「最適」であり、それを実現するためには「勇気、真摯さ、熟慮、行動」が必要である、とのこと。何とも含蓄が深い。

「真摯さ」はこの青春小説のキーワードである。最後の最後に「どんでん返し」が待ち受けているが、それを知る楽しみは読み手の側に残しておきたい。

もし一般読者向けの本を自由に書く機会が僕に与えられたとすれば、無味乾燥な教科書などではなく、本書のような潤いあふれる作品を書きたいものだ(書けるだけの能力があるかどうかは別にして)。

評価:★★★★☆

神野直彦『「分かち合い」の経済学』

スウェーデン語の「オムソーリ」は「社会サービス」を意味するが、その原義は「悲しみの分かち合い」である。著者によれば、この「オムソーリ」という言葉を導きの糸として、日本社会をヴィジョンを描くことが本書の目的であるとのこと。

同じ著者の『地域再生の経済学』については、この「乱読ノート」ですでに紹介しているが*1、本書の内容はその続編と言いうる。半分くらい重複している(悪く言えば、同じ主張の繰り返しが多い)。ブレトン・ウッズ体制の崩壊による世界経済の構造変化(グローバル化)、工業社会からポスト工業社会(知識社会)への転換は、『地域…』と本書の両方の議論に共通する歴史的背景である。『地域・・・』では、税制改革の具体的なプログラムの説明に多くの紙幅が割かれていたのに対して、本書では、(著者が理想と見なしている)スウェーデンをはじめとする北欧諸国の社会・経済・政治システムの説明に多くの紙幅が割かれている。

・・・国民の安心を保障するのは、制度ではなく、制度を支える人間の絆である。年老いても必ず社会の他者が生活を支えてくれるという人間の絆への信頼こそが、安心を保障するのである。
こうした人間の絆をスウェーデンでは、社会経済モデルの鍵を握る概念として位置づけて、「社会資本(social capital)」と呼んでいる。(p.12)

・・・貧困者に限定した現金給付の支出ウェイトの高い国は、アメリカ、イギリスというアングロ・サクソン諸国である。
これに対して貧困者に限定した現金給付である社会的扶助支出のウェイトの少ない国は、スウェーデンデンマークというスカンジナビア諸国である。・・・。
・・・格差や貧困率の低いスカンジナビア諸国は社会的支出のウェイトが高い。つまり、福祉、医療という対人社会サービスのウェイトが高い。逆にアングロサクソン諸国は社会的支出のウェイトが低い。・・・。
貧困者に限定して現金を給付することを「垂直的再分配」と呼んでおくと、育児や養老などの福祉サービスや、医療サービスを社会的支出として、所得の多寡にかかわりなく提供していくことは「水平的再分配」と呼ぶことができる。・・・。
一見すると、垂直的再分配のほうが、格差や貧困を解決するように思うかもしれない。貧しき者に現金が給付されるからである。ところが、現実には水平的再分配のほうが、格差や貧困を解消してしまう。・・・。
・・・現金給付にはミミッキング(mimicking)つまり「擬態」という効果が生じる。つまり、「お金のない振りをする」という不正が生まれる。
ところが、サービス給付だと、振りをするという「擬態」が生じない。・・・。
こうして工業社会から知識社会への転換にともなって、社会システムの「分かち合い」を政治システムに埋め込むことが重要になってくる。垂直的再分配から水平的再分配へ、現金給付からサービス給付へとシフトすることが必要になってくるからである。(pp.113-9)

・・・アメリカや日本の場合と、スカンジナビア諸国の場合では、雇用の弾力性を高めている目的がまったく異なる。スカジナビア諸国が雇用の弾力性を高める目的は、産業構造を転換していくことにある。つまり、旧来の衰退している産業から、知識産業など新しく成長していく産業へと労働者を転換させるために、雇用の弾力性を高めているのである。
・・・成長産業へと労働者を移行させるためには、再教育、再訓練などの積極的条件を整備しなければならない。これを積極的労働市場政策と呼ぶ。・・・。
旧来産業から新しい産業へ労働を移動させるために、雇用の弾力性を高めていくという政策を象徴するのが、デンマークが明示的に訴えている「フレキシキュリティ(flexicurity)」という戦略である。フレキシキュリティとは、「柔軟性」を意味する「フレキシビリティ(flexibility)」と、「安全」を意味する「セキュリティ(security)」とを合成した造語である。つまり、労働市場の弾力性(フレキシビリティ)」を高めるとともに、生活の安全保障(セキュリティ)は強化するという政策が、フレキシキュリティという戦略である。
生活の安全保障として、失業者の生活を保障するために手厚い社会保障を整備する。しかし、それだけではなく、アクティベーション(activation)、つまり失業者に対する再教育や再訓練という積極的労働市場政策によって、新しい就業を保障していく。・・・。
知識社会への転換を提唱しているスウェーデンも、労働市場を弾力的にしながら、積極的労働市場政策を進めている。(pp.165-7)

著者は自らが唱える「分かち合い」の思想を「異端」の思想(p.196)であると言う。経済学者である著者が、自らの議論を構築するにあたって、「ホモ・エコノミクス(経済人)」の仮説――「人間は経済活動において自己利益のみに基づいて完全に合理的に行動する」という経済学における理論的仮説――をきっぱりと退けていることは、確かに「異端」の名前にふさわしい。

共同体にあっては、すべての共同体の構成員が、共同体に参加して任務を果たしたいと願っている。高齢者であろうと、障害者であろうと、誰もが掛け替えのない能力をもっている。しかも、そうした能力を共同体のために発揮したいという欲求をもっている。そうした欲求が充足された時に、人間は自分自身の存在価値を認識し、幸福を実感できるからである。これが「分かち合い」の思想である。(p.14)

僕自身もまたそんな著者の主張に強い賛意を表明する異端者である。ただ、疑問点がまったくないわけではない。「果たしてスウェーデンデンマークといった人口規模が日本と違いすぎる国(それぞれ約900万人と約550万人)は日本の将来モデルになりうるのか?」という疑問がどうしても湧きあがる。この点は本書の主題に関わるだけにもっと丁寧に説明して欲しかった。また、著者は「「同一労働、同一賃金」の原則」(p.162)の確立を唱えるが、これはあまりにも現実離れしているように思われた。同じ労働であっても儲かっている会社と儲かっていない会社では社員の給料が違うのは当り前ではないのか?

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

評価:★★★☆☆

ミル『自由論』

思想史上に燦然と輝く不滅の大古典(原著1859年)の新訳。岩波文庫の訳文(塩尻・木村訳)と比較して、岩波側に軍配をあげる読者はほとんどいないのではないか? そう思えるくらいに、この新しい訳文は流麗で親しみやすい。

本書に表明されている自由観のうち、今日においても最も有名で広く支持されているのは、「他者危害[防止/排除/禁止]原則」として知られる自由観であろう。その原則は、著者ジョン・スチュアート・ミル(1806-73)自身の言葉で、以下のように表明されている。

この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。社会が個人に対して強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制で会っても、その干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正しいといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物理的にあるいは精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。ある行動を強制するか、ある行動を控えるよう強制するとき、本人にとって良いことだから、本人が幸福になれるから、さらには、強制する側からみてそれが賢明か、正しいことだからという点は正当な理由にならない。これらの点は、忠告するか、説き伏せるか、説得するか、懇願する理由にはなるが、強制する理由にはならないし、応じなかった場合に処罰を与える理由にはならない。強制や処罰が正当だといえるには、抑止しようとしている行動が誰か他人に危害を与えるものだといえなければならない。個人の行動のうち、社会に対して責任を負わなければならないのは、他人に関係する部分だけである。本人だけに関係する部分については、各人は当然の権利として、絶対的な自主独立を維持できる。自分自身に対して、自分の身体と心に対して、人はみな主権をもっているのである。(pp.27-8)

どうやらこの原則こそが、ミルトン・フリードマンの経済思想・社会哲学に基本的枠組みを与えたようだ。ラニー・エーベンシュタイン『最強の経済学者 ミルトン・フリードマン』によれば、彼はラトガーズ大学の

・・・1年か2年のとき、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読み、リバタリアニズム自由至上主義)の思想にふれる。「『自由論』には、リバタリアニズムの基本原則がもっとも簡明に示されている。『文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである』」(pp.28-9)

知的好奇心が旺盛なフリードマンは、ラトガーズ大学時代にジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読み、他人に迷惑をかけない限り、個人はなんでも好きなことをできるというリバタリアニズム自由至上主義)の根本理念に感動するが、そうしたものの考え方が具体的な政策提言に結びつくには、長い時間がかかった。(p.52)

しかし、若きフリードマンが『自由論』をいかに愛読していたとしても、彼の理解が『自由論』の唯一絶対の理解であるわけがない。古典的著作の豊饒な思想世界は、問題関心の異なる読者を、読書のたびごとに異なった種類の深遠な思索へと導いていく。それは、古典が古典であるゆえんとして、当然のことである。実際、僕は「他者危害原則」以外の叙述のほうにより強く印象づけられた。

「他者危害原則」をそのまま真に受ければ、自らの境遇を悪化させるような愚かな行為を行う権利も各人に認めなければならなくなるが、果たして本当にそうだろうか? もしそうであれば、なぜ画一化の趨勢に抗うこと、個性を尊重し発展させることが、かくも力強く主張されているのだろうか? 「みんなと同じでいいじゃない。そうする自由を私は選びたい」という意見をどのように考えればよいのか? さらには、先の原則を現実の諸問題に適用しようとする場合、「毒物の販売の是非」や「親の子どもに対する責任」といった問題をどのように考えればよいのだろうか?

理解が一段階深まると、さらなる新たな疑問に漂着する。そのような粘り強い思索をミルと一緒に続けるうちに、日常の「あたりまえ」がいつの間にか「あたりまえ」でなくなっている。読書の醍醐味を堪能させてくれる。やはり紛うことなき不滅の大古典である。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

評価:★★★★★

西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』

漫画家・西原理恵子さんが自らの半生を「お金」についての思索とともに綴ったエッセイ。中高生向け新書「よりみちパン!セ」シリーズの一冊として公刊された。*1

高知県の貧しい漁師町に生まれ、複雑な家庭事情のもとで育った著者は、高校中退後、大好きな絵で生きていくことを決意して、単身上京する。美大で落ちこぼれてしまうが、持ち前のバイタリティを発揮して、エロ本のカット描きの仕事を手に入れる。それをきっかけとして、少しずつ能力を認められるようになり、一歩一歩着実にキャリアを積み重ねて、漫画家としての成功を手に入れる。しかし、成功によって手に入れたお金の多くを、ギャンブルにのめりこんだことで失ってしまう。お金を通して見えてきた、自分と仕事、自分と他者、自分と世界、自分と家族・・・・。

どこか切なく、それでいて生きていくことへの勇気を与えてくれる一冊。すべての若者に読んでもらいたい。

自分は絶対に絵を描く人になって東京で食べていく。そう心に決めた。
この町には、もう、絶対に帰らない。
こんなたいへんなときなのに、お母さんは「行きなさい」って、わたしに言ってくれたんだもん。絶対に帰れない。
わたしの歩きだした道は、だから引き返せない一本道だった。(p.75)

最下位の人間に、勝ち目なんかないって思う?
そんなの最初っから「負け組」だって。
だとしたら、それはトップの人間に勝とうと思っているからだよ。目先の順位に目がくらんで、戦う相手をまちがえちゃあ、いけない。
そもそも、わたしの目標は「トップになること」じゃないし、そんなものハナからなれるわけがない。じゃあ、これだけは譲れない、いちばん大切な目標は何か。
「この東京で、絵を書いて食べていくこと」。
だとしたら肝心なのは、トップと自分の順位をくらべて卑屈になることじゃない。
最下位なわたしの絵でも、使ってくれるところを探さなくちゃ。最下位の人間には、最下位の戦い方がある!(pp.84-5)

「どうしたら夢がかなうか?」って考えると、ぜんぶを諦めてしまいそうになるけど、そうじゃなくって、「どうしたらそれで稼げるか?」って考えてごらん。
そうすると、必ず、次の一手が見えてくるものなんだよ。
数えきれないほどの出版社に必死で売り込みをかけるうちに、わたしも、そのことを学んだと思う。
・・・。
だいたい、そういう自分の才能に自信のある子たちって、プライドだって高いからね。エロ本の出版社になんか、絶対に売り込みに行くわけないもん・・・。
だけどね、最下位のわたしのチャンスは、そういう絵のうまい人たちが絶対に行かないようなところにこそ、あったんだよ。
プライドで、メシが食えますかっていうの!
わたしに言わせるなら、プライドなんてもんはね、一銭にもならないよ。(pp.93-6)

才能なんて、だから天賦のものではなくて、ほとんどあとからもらったものだと思う。
わたしだって、最初は自分に何ができるかなんて、ぜんぜんわかっちゃいなかった。
だいたい東京に出てきたときに、まさか自分がエロ本で「オンナのアソコはこう攻めろ!」なんていうテーマで図解を描くようになるなんて、夢にも思わないもんね。
おんなじ業界でもいろんな仕事があるから、来る仕事、来る仕事が、ほとんど「想定外」みたいなもの。
でも、自分がそれをできるかどうかなんて、やってみないとわからないよね。だから、来る仕事は、わたしは断らなかった。場数を踏んでいるうちに慣れてくるし、自分の得意、不得意だってわかってくる。
・・・。
何でも仕事をはじめたら、「どうしてもこれじゃなきゃ」って粘るだけじゃなくて、人がみつけてくれた自分の「良さ」を信じて、その波に乗ってみたらいい。
わたしの場合も、人から「あれ描いて」「これ描いて」って注文されて、断らずにやっているうちに「このあいだのアレ、おもしろかったよ」「こういうのをまたやりましょう」って、ウケるほうに、食べていけるほうに、仕事が寄っていった。そうなると、ひとつの仕事が次の仕事を呼んで、仕事の道ができていく。
だから私は思うのよ。
「才能」って、人から教えられるもんだって。(pp.106-9)

それでも、もし「仕事」や「働くこと」に対するイメージがぼんやりするようならば、「人に喜ばれる」という視点で考えるといいんじゃないかな。・・・。
人が喜んでくれる仕事っていうのは長持ちするんだよ。いくら高いお金をもらっても、そういう喜びがないと、どんな仕事であれ、なかなかつづくものじゃない。
自分にとっても向き不向きみたいな視点だけじゃなくって、そういう、他人にとって自分の仕事はどういう意味を持つのかって視点も、持つことができたらいいよね。
自分が稼いだこの「カネ」は、誰かに喜んでもらえたことの報酬なんだ。(pp.198-9)

本書で西原さんが展開している「仕事」や「競争」についての思索は、僕も執筆に加わっている佐藤方宣編『ビジネス倫理の論じ方』(特にその第3・4章)と不思議なくらい符合している。あわせて読んでいただけると幸いである。

ともすれば労苦となりがちな労働を喜悦に変える環境要因は・・・その労働を通じて自分が他者とどれほど豊かな関係を結んでいるかの自覚なのである。(『ビジネス倫理の論じ方』第3章)

競争とは一つのものをめぐって争っているわけではない。・・・競争とは非常に多様なものであり、人々は一つの競争で負けたとしても、その場所を「降りる」ことによって、別の競争に移ることができる・・・。(『ビジネス倫理の論じ方』第4章)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

評価:★★★★★

*1:このエントリの日付は2010年6月だが、実際に書いているのは2011年2月で。この半年間に本書の版元である理論社は経営破綻してしまった。http://www.cinra.net/news/2010/10/06/205205.php このニュースでも触れられているが、「よりみちパン!セ」話題性に富む良書ぞろいで、好評を博したシリーズだったので、本当に残念である。

烏賀陽弘道『Jポップとは何か』

8期ゼミのテキスト。HYSさんが選んでくれた。ヴォーカル・トレーニングを受けている彼女は大好きな音楽をテーマとした卒論を書きたいようで、その予備的作業として本書に基づく報告を行おうと思い至ったらしい。

音楽(聞く・演奏する)を趣味にしているゼミ生はこれまでも少なくなく、「卒論テーマに音楽を選びたいんですが・・・」と相談に来られたことが幾度もあったが、僕は「薦められない」と繰り返し返答してきた。音楽のように感覚に強く訴えかけるテーマ(「お笑い」なども同じ)だと、主観的な「好き/嫌い」「思い入れ」の束縛から自由になることがきわめて難しく、データを踏まえた客観的な分析という論文の要件を満たすことが(少なくとも僕のゼミ生には)ほとんど不可能だったからだ。しかしながら、本書は音楽という難しいテーマを論じる際の格好の見本としてお薦めできる一冊である。さすが元朝日新聞記者の著者だけあって、その難業を見事にやってのけた。

本書は、文化・産業としての「Jポップ」――その呼び名ができたのは1988年末ごろであるらしい――を、豊富な取材に基づきながら、経済のグローバル化の進展(その反作用としてのローカル化)、産業技術のデジタル化、メディア(テレビ業界・広告業界)との関わり方の変化などの観点から、多面的に分析している。1968年生まれの僕にとっては同時代史としても読みうる内容で、最初から最後までたいへん面白く読ませてもらった。論理的に書かれているが、記述は決して難解でない。その内容は説得力に富むものであった。

その多面的な分析を手短にまとめることは容易ではないが、本書の根幹をなすのは、以下のような問いである。

「Jポップ」という名前がどんな音楽を指すのか、私もよくわからなかった。そしてこの新奇な名称がある日突然現れたという現象そのものに、興味を持った。・・・「Jポップ」という言葉は一体誰が考えたのか。なぜそんな名前が生まれたのか。それは日本のポピュラー音楽をどう変えたのか。そこを通して見た日本という社会はどんな姿に見えるのか。これが本書の根幹をなす問いである。(p.ii)

この問いに対する著者の答えは以下である。

・・・経済で世界(主に欧米)に比肩しうるような日本が、次に夢見たファンタジーは「文化でも世界でも肩を並べること」であり、88年に生まれた「Jポップ」という名称が消費者に運んだのは「日本のポピュラー音楽という文化が世界に肩を並べるようになった=精神的に豊かになった」というファンタジーだった・・・。(p.131)

「海外でも受容されるインターナショナルなポピュラー音楽」というJポップのファンタジーである(p.171)

このようなファンタジーの背景にあるのは、1980年代に急速に進展した世界経済のグローバル化であり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉に象徴されるように、「日本経済はついに米国経済に比肩するようになったのだ」という大いなる自信である。

また、1980年代には、産業技術のデジタル化が著しく進展し、そのことが音楽を愛好し消費する層を大きく変貌させた。

・・・70年代後半から80年代前半になると、オーディオディスクの生産額は3千億円を目前としてぴたりと伸びが止まってしまう。同時に、再生装置の売れ行きも足踏み状態に入る。「買うべき購買層には再生装置は行き渡った」。そういうふうに言われていてもなお、家電メーカーの参入は増え続け、再生装置は供給過剰状態に陥った。
・・・。
が、そんな行き詰まりを打破する画期的な技術的ブレイクスルーが訪れる。それがCDの登場なのだ。(pp.29-30)

CDが登場するまでのアナログ時代、レコードプレーヤーにアンプ、スピーカーなどコンポを揃えてLPを楽しむことができたのは、購買力の高い層だった。その中心は成人男性である、いわゆる「オーディオ」は「大人の男の高級な趣味」だったのだ。(p.42)

ところが、CD時代になって女性や若者が新しい顧客の仲間入りをしたことで、成人男性の顧客としての比重は相対的に低下した。(p.45)

さらには、この時代以降、音楽とマスコミとの関わり方も大きく変化した。テレビとのタイアップの強化は、音楽産業の規模を拡大したものの、音楽表現の多様性の喪失という皮肉な結果を生んだ。

「音楽」「テレビ」「広告」が合流して「Jポップ産業複合体」が生まれた。Jポップ産業複合体は、「音楽」「テレビ」「広告」が共存する新しいメディア空間を生んだ。レコード会社は、その新しいメディア空間をその活動舞台として当初から想定した人材を開発した。(p.98)

広告の表現基準がポピュラー音楽に持ち込まれた。・・・広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため「社会のマジョリティが合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気づかないような内容を歌にして世に出したりできる、極めてレンジの広い表現形態である。しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。(p.102)

日本のポピュラー音楽は「Jポップ化」することによって、音楽としての質を低下させたのだ。1998年以降の音楽産業の不振(CDの売上げの急落)の一番の原因は、「インターネットからの不法ダウンロード」でも「逆輸入盤」でもなく、「製品」である「楽曲」の質の低下にあるのではないか? 著者はこのように問題提起して、本書を終えている(p.228)。

本書でいちばん印象深かったのは、ずいぶん昔から個人的に抱いていた疑問「なぜ日本の歌手はネイティブに通じない疑似(和製)英語で歌うのか?」に対して、著者が明確な解答を示してくれていたことである。

実は、Jポップが持つ「日本のポピュラー音楽が外国と肩を並べた」というファンタジーそのものが、この「外国と肩を並べたポピュラー音楽を愛好する自分を好ましく感じる」「自分も外国と肩を並べたかのように感じる」という消費者の自己愛的な嗜好を先読みしたマーケティングの産物だともいるのである。(p.155)

90年代になって、日本人を相手に、つまり国外ではレコードが発売されていないのに英語の歌詞を歌う歌手・バンドが増えたことも、そうした聴き手のファンタジーをかなえることを商品価値として狙ったものと考えるとわかりやすい。
筆者はかつてBONNIE PINKTRFブリリアント・グルーンなどが歌っている英語歌詞を検証し、そのほとんどが英語として成立しないことを指摘したことがある。・・・宇多田ヒカルを唯一の例外として、残りは英語歌詞として成立するものはひとつもない・・・。
では、なぜ疑似英語を日本人相手に歌うという奇妙な現象が後を絶たず、聴き手もそれを問題とは感じないのだろうか。
ナルシシズム消費の文脈で考えれば理解しやすい。そうした音楽を購入する消費者にとって重要なことは、それがたとえ疑似英語であっても「自分と同じ日本人歌手が英語で歌う」ことであり、「それをカラオケで歌っている自分を好ましいと思う」「そのCDを所有している自分を好ましいと思う」ことなのである。
こうした「英語で歌う日本人」を愛好する聴き手が、欧米の英語ネイティブが母国語で歌う音楽(つまり洋楽)を愛好しているかというと、必ずしもそうではない。そうした日本の聴き手が求めているのは、あくまで「英語(のような言葉)で歌う日本人」=「インターナショナルに見える日本人」なのである。その商品価値は「インターナショナルに見える」だけで十分に満たされる。(pp.158-60)

「見える」だけなのは恥ずかしいという感覚が、どうしても僕にはある。「インターナショナルに見える」だけでは満たされない。「インターナショナルでありたい」という気持ちが(それほど強くはないけれど)あるからこそ、今も英語を勉強している。それゆえ、正しい英語へのこだわりも強い。しかし、「それがナルシシズム消費であろうとなかろうと、音楽の楽しみ方は人それぞれじゃないか?」と抗弁されると、それに反論しづらいのも確かである。

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

評価:★★★★☆

小山信康『貯金のできる人できない人』

9期ゼミのテキスト。T田さんの選定。

無駄遣いを減らすためには、何が無駄なのかを発見する必要がある。本書は「無駄遣いを減らすために日々の支出を記録(レコーディング)してみよう」と提言し、そのための具体的なノウハウを解説している。レコーディング・ダイエットの手法をそのまま貯金にも活かそうとしたものだ。

表面上は軽い読み物であるが、単なるハウツー本に終わらせない読み方も可能である。本書をもとに「投資とは何か?交際費が投資に相当するのはどのような場合か?」を考えてみると面白い。また、「時間を投資する」という考え方も重要だ。日々の時間の無駄遣いを減らして、空いている時間を将来のスキルアップのために有効活用する(156ページ以下)とは、つまるところ、現在の時間を将来のために投資することを意味する。収入を増やすために努力した時間というのは、たとえ今失敗したとしても、数年後の収入増に役立つはずだ。このような「時間を投資する」という考え方を手に入れることによって、我々は現在の失敗経験をポジティブにとらえなおすことができるはずだ。*1

正直に言うと、僕自身が本書から得るところはさほど多くなかった(普段から考えていることが大半だった)が、ゼミ生たちは多くを学んでくれたように見受けられた。

評価:★★☆☆☆

*1:僕の場合、チャレンジしては挫折することを繰り返し、少なくとも現時点では仕事で使えるレベルにまったく到達していない中国語・ロシア語・フランス語の勉強に充てた時間が、その「投資」にあたるだろう。

國森康弘『家族を看取る』

「死」と「お金」をテーマとする9期ゼミの最初のテキスト。

本書は、フリーのフォトジャーナリスト(元神戸新聞記者)である著者が、日本海の離島(島根県知夫里(ちぶり)島)で高齢者に手厚いターミナルケアをほどこす養護施設「なごみの里」を取材し、「幸せな死」についての思索をまとめたものである。

著者はそれ以前に世界各地の貧困地域・紛争地域を取材し、飢えや戦禍による「選択余地のない死」「望まない死」を数多く見つめてきた。そのような死ばかりを伝えることに迷いが生じていた著者は、「「幸せな死」はこの世に存在するのか。存在するとすれば一体どこに、どんな形で存在するのだろうか。」(p.12)と自問するに至った。そんな折り、「なごみ里」の存在を知り、取材を重ねるようになった。

「なごみの里」代表の柴田久美子さん(1952- )は、日本マクドナルド社での凄腕キャリアウーマンの時期を経て、40歳を過ぎてから、介護の仕事に携わるようになった。しかし、特別養護老人ホームや有料老人ホームでは、少人数の職員による効率最優先の介護(統制・管理の強化)を余儀なくされ、入所している高齢者本人が望むような最期を迎えることはきわめて難しかった。医療技術の発達による延命至上主義の風潮がそうした困難に拍車をかけた。このような現実に対する疑問が、「なごみの里」創設(2002年)のきっかけとなった。

入所者3人に対し、介護福祉士やヘルパーの資格を持った正規職員に村の有償ボランティア数人を加え、スタッフは10人を超える。「世界で一番手厚い、行き届いた介護」と柴田さんは笑う。(p.42)

「なごみの里」は、「高齢者1人1人が自分の家にいるような感覚で、目一杯甘え、わがままを言える環境づくりを心掛けている」(p.24)。高齢者が安らかな最期を迎えられるためにいちばん大切なのは、看取り師との「1対1」(pp.24, 93, 97)の深い関係である。

何もしないで、ただそばにいる。添い寝する。身体をさする。手を握る。声をかける。「そうだね」と共感する。それだけでいい。そうすることで、死に行く者は死を自然に受け入れるようになり、やがて「仏」のような柔和な表情へと変わっていく。これこそ、逝く人が満足し、残る人も救われる看取りのかたちなのだ。

「1対1」の深い関係を大切にしようとすれば、「福祉はビジネスと相反するという前提」(p.196)を認める必要があるだろう。

大規模な看取り施設の運営話を持ちかけられたりもしたが、「自分が責任を持って同時に見ることができるのは8人くらいまでだから」と断った。(p.45)

上に、「残る人も救われる」と書いた。実は、看取りとは、看取られる側だけでなく看取る側も充足感と感謝で満たされる大切な儀式なのだ(むしろ、本当に救われるのは看取り側である)、というのが本書のもう1つの大切なメッセージである。

死とは一体何なのか――。
死は、代々受け継いできた命のエネルギーを、次の世代に受け渡していく、命のリレー。どれだけ途中苦しんできた人も、遅くとも最後の瞬間には「救われる」ことを数々の死に立ち会い、その表情から教えてもらった。「幸齢者」はその瞬間に「仏様」のような表情で、光に包まれ、先に逝った人たちの世界に招かれていく。いわば、「死はご褒美」なのだ。
果たして、どれだけの人が死をご褒美だと受け止めることができるのか疑問だ。ただ、今まで死を「苦」「汚れ」などと何の根拠もなく全面否定的に捉えて忌み嫌ってきた私たちは、死の世界を実際には知らない以上、この際、「死はご褒美」とする発想についても少なくとも同程度には受け入れてもいいのではないだろうか。看取りの取材を進めていて、そんな気がしてきた。そしてそれは、死を迎える人にとってだけではない。看取る側の人たちにとってもかけがえのない「ご褒美」と言える。(pp.90-1)

僕も父を看取った。父の死に顔があまりにきれいだったので、母が「結婚した時とおんなじ顔してるわ」と感動していた(同じことが208ページにも書いてあった)。本当に救われたのは残された家族のほうなのかも。・・・おそらくそうだろう。そんな気がしてならない。

家族を看取る―心がそばにあればいい (平凡社新書)

家族を看取る―心がそばにあればいい (平凡社新書)

評価:★★★★☆

神野直彦『地域再生の経済学』

ちょうど1年前の今頃、同僚SB先生(地域経済学)の学部ゼミで「地方工業都市の現状と課題」(卒論テーマ)について研究していたN本君を、ひょんなことから自分の院ゼミ生として受け入れることになった。以来、修論指導の関係で、地域経済学と(自分の専門である)経済思想史との接点をことあるごとに探索してきた。そんな折りにたまたま出会った出会ったのが本書である。

著者は新自由主義(市場主義)の潮流に批判的な財政学者である。日本の地域再生のシナリオ――生産機能を重視した地域再生から生活機能を重視した地域再生への転換、市場主義によるアングロ・アメリカン型(あるいは小泉&竹中構造改革型)の地域再生から反市場主義的な(=市民の共同の経済である財政にもとづく)ヨーロッパ型の地域再生への転換――の道筋を、財政思想史の知見を踏まえつつ、地方への税源移譲というの視点から描き出そうとしている。

本書の概要をまとめれば、以下のようになるだろう。

1980年代以降、資本の自由な移動が可能になり、経済システムのボーダレス化・グローバル化が進展すると(その背景にはブレトン・ウッズ体制の崩壊による資本統制の解除がある)、そのメダルの背面として、海外生産比率が急激に上昇し、地方圏からアジアへと工場機能が流出して、地方圏の生産機能が空洞化し、地域社会は衰退の一途をたどっている。

しかし、今日の世界は重化学工業を機軸とする産業構造の時代から、情報・知識産業を機軸とする産業構造の時代へと転換しつつある。いったん流出した工業を呼び戻すために企業誘致を図ることは、この流れに反しており、時代錯誤である。このような流れの中で地域社会を再生させるためには、工業に代わる知識産業を地域の伝統的な文化を復興させることによって創り出す以外に方法がない。

見習うべきは、フランスのストラスブールなどに代表されるヨーロッパの都市である。「ヨーロッパの都市再生の秘密は、市民が共同負担にもとづいて、共同事業を実施できる財政上の自己決定権にある。市民が支配する財政によって、市民の共同事業として都市再生が実施されれば、大地の上には人間の生活が築かれることになる」(p.13)。地方自治体の財政的な自立(国から地方への税源移譲)があって、初めて生活機能重視の地域の再生が成り立つ。人的投資(教育)が公共サービスとして供給されて初めて、知識社会(あるいは新しい人間の欲求)に対応した新しい産業(雇用)が創出される。

おおよそ以上のような内容であると言えよう。

アメリカとヨーロッパの都市再生の方向性を過度に二項対立的に捉えている嫌いがある(必ずしもそうとは言えないことが、中村剛治郎『地域政治経済学』で指摘されている)けれども、それを除けば著者の主張は平易かつ説得的で、僕は基本的に賛成である。普段僕が漠然と考えていたことを、僕に代わって明快な言葉で表現してくれた。感謝したい。

自分の無知をさらけ出すようで恐縮だが、本書でいちばん勉強になったのは、ブレトン・ウッズ体制(の崩壊)の世界史的意味に関する叙述である。ブレトン・ウッズ体制所得再分配国家の前提をなしていたがゆえに、その崩壊が新自由主義的政策思想の台頭を招いたことは、指摘されれば当然なのだが、本書を読むまで明確に意識したことはなかった。

地域再生の経済学―豊かさを問い直す (中公新書)

地域再生の経済学―豊かさを問い直す (中公新書)

評価:★★★★☆

立岩真也・尾藤廣喜・岡本厚『生存権』

大学院時代の恩師の一人である中村健吾先生が編者を務められた社会思想史の教科書『古典から読み解く社会思想史』(ミネルヴァ書房)に、僕は「人間の権利は存在するのか?――バーク、ペイン」(第2章)と題する論考を寄稿した。*1「人権をテーマとした章を書いて欲しい」というのは中村先生からのリクエストで、それに合わせて書いたわけだが、この論考を準備するうちに人権(特に生存権)への関心が僕の中で一気に高まった。そのようなタイミングでたまたま手に取ったのが本書である。

本書は「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法第25条)をテーマとする3本のインタビューから構成されている。語り手は立岩真也社会学者)、尾藤廣喜(弁護士・元厚生官僚)、岡本厚(『世界』編集長)の3氏。聞き手は元岩波書店の編集者である堀切和雅氏。本書全体を覆っているのは、弱者に冷酷な昨今の日本社会の空気への悲しみと怒りである。

3氏(インタビュアーの堀切氏を含めれば4氏)ともが、生存権生活保護をめぐる議論の「転倒」を指摘している点がたいへん興味深い。そうした「転倒」が当然視されるようになった背景には、新自由主義的な思考の普及を第一に指摘できる。4氏の発言をいくつか紹介しておきたい。

  • これからの、保険なり社会保障なりっていうのが、自分の将来のためであるから、この話に乗ってちょうだいというところが、唯一そのシステムを正当化するロジックであったがゆえに、逆にそれが、だったら政府じゃなくてもいいみたいな話につながってきた部分があったんじゃないか・・・。(立岩, p.18)
  • 結局は、例えばあなたもいつ障害者になるかわからないんだからね、とか、あなたがいつ病気で困窮するかわからないんだからねって説得しかないのは限界がある。今は、例えば収入の4割を社会保障負担に入れれば、4割戻ってくるっていうロジックの話ですけれども、たまたま普通に働ける人間の場合は、4割払って戻ってくるのは2割でもいいんじゃないかっていうふうに僕は思うんですね。(堀切, p.20)
  • 最低限度なるものを、これが低いだの高いだのっていうようなことをめぐって議論しなきゃいけないっていうのは悲しいなっていう感じがどこかであるんですよね。・・・ワーキングプア生活保護の人たちよりも、年間の総収入として低い、ということが起こっているのは事実ですよ。それはだけど、話が逆なわけで、だからワーキングプアに合わせましょうって話じゃないわけですよね。ワーキングプアと言われる人が、少なくとも生活保護受給世帯のラインに達する収入を得られればよいのであって。(立岩, p.28)
  • 資産があったり貯金があったり、持ち家があってしまったりすると、結局それを全部吐き出してしまってからでないと、わが国の公的扶助というのは使えない・・・(立岩, p.32)
  • どんせ制度を作ったって、制度の裏をかいたりとか、ちょっとした漏れがあるっていうことは必ず出てくるわけです。探そうと思えば少なくともある程度出てくる。それをやかましく言って、やっぱり受けすぎのやつがいるという話になっていくと、しょぼしょぼっとした話になっちゃう。(立岩, p.36)
  • 一番大きい問題は、今も問題なんですけども、資産の保有がどこまで認められるか、という問題なんです。・・・資産の保有の問題を一つ一つ議論するっていうのは、私は時代に合わないと思うんですよ。・・・一般的にみんなが持っているようなものについては、ストックは問題にすべきでないと私は考えたわけです。フロー、つまり収入の流れだけを補足しておけばいいと思う。(尾藤, pp.55-7)
  • 年金の額が低いんだから、生活保護費を下げろ、低いほうに合わせろという発想はね、まったく理解できない。発想が逆なんです。(尾藤, p.65)
  • 生活保護を受けている人が、老齢加算にしたって母子加算にしたって削減に反対して訴訟を起こしてるってことに対して、ものすごくハレーションが強いんですよ。無言電話があったりね、投書でめちゃくちゃ書かれたり。税金で食わせてもらって何文句言ってんだ。そういう意見がものすごく強いですよ。(尾藤, p.71)
  • こんな労働の状況だと、自分さえ強ければいいっていうような風潮が横行したり、いじめが起きたりしますよね。強い者がすべてだと。ずるしたってね、いい点とればいいんだと。少しでもいい大学に入るためなら友だち蹴落とさなきゃいけない。そういう世の中にしたくないって言ったって、現実にそういうふうに運用しちゃったらそうなっちゃいますよね。(尾藤, p.82)
  • 貧しいのは「自己責任」であり、「努力が足りない」「能力がない」からだ、という発想がはびこっていて、自分から声も挙げられないし、周りも応援どころか冷たく見ている。それが新自由主義という考え方が人びとの意識に浸透した結果だろう。(岡本, pp.87-8)
  • ワーキング・プアが、いくら働いても生活保護費以下の収入だ、というと、じゃあ生活保護費の方を下げましょうという馬鹿な発想になるでしょう。(岡本, p.90)
  • ほんとの自由っていうのは、僕は、ある程度生活を保障されたところでしか発生しないと思う。生きられる、生存権が守られる、最低限の生活ができるときに初めて自由という概念が成り立つし、自由な言論っていうものも成り立つ。(岡本, p.110)
  • なぜか日本人は、相手をバッシングしたら言うこときくようになるだろうと思うんだね。少年犯罪が増えた(実は増えていないのだけれども)、じゃ少年法を厳しくしようとか、危険運転をしてひどい事故を起こした、じゃ罰則を厳しくしようとか、ひどい犯罪をやったやつは死刑にせよとか、叩きのめせばいい、って単純な発想が強くなってきていると思う。(岡本, p.122)

「連帯」を忘れたバラバラの砂粒のような個人は、もはや「嫉妬」「弱者バッシング」をバネにする以外に生きてゆけないのだろうか? そういう社会に自分は生きたくないし、そういう社会を未来世代に残したくもない。何とかしなければ、と思う。

生存権―いまを生きるあなたに

生存権―いまを生きるあなたに

評価:★★★☆☆

*1:この教科書はすでに公刊されている。

香内三郎『ベストセラーの読まれ方』

著者はマス・コミュニケーション史を専攻する元東大教授。2006年2月に74歳で逝去。本書は近世・近代イギリス社会における活字メディアを主題とする。ジョン・フォックス『殉教者の本』、ロバァト・バートン『憂鬱の解剖』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、トマス・ペイン『人間の権利』、チャールズ・ダーウィン種の起源』、サッカレー『虚栄の市』、オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの画像』という7冊のベスト・セラーを採りあげ、それらがどのように読まれたかを考察することを通じて、活字文化の変貌を明らかにしようとしている。

ペイン『人間の権利』を扱った第4章は、自分自身の専門(バーク研究)との関連もあって、かなり前から幾度も繰り返し読んできた章なのだが、全体を通読する機会はなかなか得られなかった。このたびようやくその機会を得た。ジョン・フォックス『殉教者の本』を扱った第1章が実に面白い。実際に読まれることは少なく、お守り(護符)として所有されていた、と言うのだ。「読まなくても(内容は大体聞いて知っている)、持っているだけで悪魔をよせつけない、精神が安定する」(p.48)という効能が期待されていたようだ。さながら今日の「積読(つんどく)」である。実際に読む予定はないものの、その本が書架に収まっているだけで、自分が賢くなったような錯覚に陥ってしまうから、何とも不思議である。

web上にレヴューがまったく見当たらないのが不思議な好著である。

評価:★★★★☆

桑原耕司『社員が進んで働くしくみ』

岐阜県に本社を置く中堅ゼネコン(1988年創業、社員数約140名)「希望社」。本社ビルの正面には「談合しない。(21世紀型建設業)」と書かれた大きな垂れ幕が下がっている。

著者は、「建築主に良い建築を安く提供する」という理念を実現するために、大手ゼネコン(清水建設)を退社し、希望社を設立した。本書は、希望社の常識にとらわれないユニークな(ユニークすぎる!?)経営についての、社長自身による紹介本である。

先の理念を実現しようとすれば、理念とは無関係に仕事をしているフリだけで給料をもらおうとする「ぐうたら社員」を雇っている余裕はない。そのため、希望社は時間に対してではなく仕事の成果に対してのみお金(給与)を支払う「完全成果主義」を採用している(p.13)。しかし、その成果主義は通常イメージされるそれとはかなり異なっている。

高賃金・高待遇を約束する従来の成果主義は、社員の会社への期待を増大させ、会社への依存度をむしろ強めてしまう危険がある。やみくもに業績を追い求めた結果、一番重要なはずの「理念」が忘却されてしまう危険すらある。理念の具現化のために希望社を作り、その手段として成果主義を導入したはずなのに、これでは本末転倒である(pp.167-8)。

希望社において「理念」は単なるお題目でない。本末転倒を防ぐためには、社員が会社からの給料以外にも収入を得られることが望ましい。会社からの収入よりも他の事業から得る収益のほうが大きくなれば、見かけの結果にとらわれず、賃金の多寡にかかわらず、「理念」を純粋に追い求めることができる。「雇用関係のない会社」が実現される。

これこそが希望社の目指すべき方向である。具体的には、「社内事業家」(p.154)を育成し、会社を踏み台にして、経済的・精神的に自立してもらい、純粋に「理念」を追い求めてもらう。一人一人の生の営みが、もはや仕事ともボランティアともつかないものになる。このようにして、「働かされない働き方」が可能となる。

この「働かされない働き方」は、本書のサブタイトルにもなっており、希望社の理念(「建築主に良い建築を安く提供する」)の精神的支柱(もう一つの理念)であると言ってよい。著者はこうした理念を今村仁司氏の『仕事』から学んだと告白している。(p.68)

これほどまでに理念を重視する会社であるから、その理念を自分のものとし、その達成のために働く人しか残れない(そうでない人を辞めさせる)ような様々な工夫が凝らされている(「自動リストラ装置」「遠心分離グループ」(p.90)など)。社員の生活を守ることよりも理念の追求を優先する会社であるから、それは時として弱者を切り捨てる弱肉強食の会社と誤解されるが、決してそうではない。

最後に、自分自身のビジネス倫理研究との関連で特に印象に残った叙述を紹介しておきたい。すでにレヴューした小笹芳央『会社の品格』*1の叙述(上司の本質的な役割)と重なっていて、たいへん興味深かった。

しかし、社員数が増え、組織が複雑化するにつれて、社員たちの声が私に届かなくなってきました。知りたい情報が上がってこないのでは、適切に問題を解決することができません。
調べてみたところ、一番の問題は「部長」という存在でした。そもそも「部長」というのはどこの会社にも当たり前にいる存在です。継続的な組織の上にあぐらをかいているのですから、改革志向がありません。
組織というのは生き物です。常に「情報」という血液の流れを良くしておかないと、すぐに体がなまってしまいます。この血液を運ぶパイプの役目をするのが、本来の「部長」の仕事なのですが、彼らはそれを果たしていませんでした。
部下から出た「部長」の無能さや無責任に対する批判、会社に対する不平不満、部下の個人的な事情や業務上の問題点などを、自分に都合の悪い情報として覆い隠していたのです。これでは「部長」の存在によって、あらゆることが止まってしまいます。
会社は、社員たちから生まれる数々の不満や要求、こうしたらもっとよくなるのではないかという改革志向によって、揺さぶられるべきものです。それによって、より良い組織に生まれ変わることができるからです。
しかし「部長」たちは、そう考えてはいませんでした。私に問題を伝えると、管理職としての自分の評価を下げてしまうと思っていたのです。それだけでなく、彼らは「部長」という職位を得ることで、高いところから下の者に対してものをいうのが当然というふるまいをしています。「部長」の職責は果たさず、ふるまいだけは「部長」なのです。こんな無能な人間の下では、いくら有能な社員を配しても人が育ちません。
このような問題が明らかになってきたため、私は大規模な組織改革を行い、「部」と「部長」を全廃させたのです。これによって、社員たちは必要に応じて私に直訴できるし、私も自分の考えをストレートに全社員に伝えることができるようになりました。(pp.81-2)

社員が進んで働くしくみ 「働かされない働き方」が強い会社をつくる

社員が進んで働くしくみ 「働かされない働き方」が強い会社をつくる

評価:★★★☆☆

城山三郎『彼も人の子 ナポレオン』

ナポレオンの生涯を描いた中編の評伝である。「あとがき」によれば、著者はナポレオンを「神の子」や「時代の子」として描くことに興味はなかった。「かねて気になる存在」であったこの人物の、「正体まで行かなくとも、ちらっとでも素顔を見てみたい」(pp.266-7)とのこと。

著者は、ナポレオンの天性の「集中力」、「率いる」ことへの飽くなき執念を、それらと背中合わせの「幼児性」とともに描き出す。そして、「コルシカ」や「共和制」といった大義を衣裳同然に取り替えていく態度に慨嘆する。同じ著者が『わしの眼は十年先が見える』*1で描いた大原孫三郎の生涯とのコントラストがたいへん興味深い。

彼も人の子 ナポレオン―統率者の内側

彼も人の子 ナポレオン―統率者の内側

評価:★★★☆☆

佐野眞一『東電OL殺人事件』

渋谷区円山町のラブホテル街に隣接したアパートの一室で、39歳の女性が絞殺された。このニュースが世間の興味を惹いたのは、被害者が慶応大卒業後に東京電力に入社するエリートコースを歩んでおり、殺害された当時には管理職の地位にあったにもかかわらず、夜は夜で娼婦としての別の顔を持っていたからであった。彼女の最後の客であるネパール人が強盗殺人容疑で逮捕された。本書は、この衝撃的な事件の、事件発生(1997年3月)から被疑者の無罪判決(2000年4月、東京地裁)に至るまでを追跡したノンフィクションである。

本書は佐野氏の著作の中ではすこぶる評判が悪い。なぜなら、本書の読者の大半は被害者の女性の心の謎――なぜ売春行為を始めたのか?なぜ1日4人というノルマを自分に課したのか?――の解明を期待しているのに、それがまったく解明されず、記述の多くが被疑者のネパール人の無罪の立証にあてられているからである。著者は、被害者の女性の心の謎に迫る事実を発掘したいという衝動に駆り立てられながらも、結局、発掘することができず、謎を謎として書き残す以外になかったようである。数学で「解なし」が正解の場合があるが、この事件の場合も「結局、わからないものはわからない」が著者の提示する解答のようである。確かに欲求不満が残る。僕自身、読み始める前の期待が大きかっただけに、肩すかしを食らわされた気分である。

実はこの事件には続きがある。本書は被疑者のネパール人が東京地裁で無罪判決を勝ち取ったところで終わっているが、その後、東京高裁での控訴審で逆転有罪判決が下され、最高裁で上告が棄却された結果、無期懲役が確定している。もしそのネパール人が真犯人だったとすれば、本書を読むかぎりでは、これといった殺害の動機が見当たらず、ますますわからないことが増える。欲求不満が高まる。

読書はエンターテイメントだ。読後感はすっきりしたものでありたい。しかし、現実の複雑さがそれを許さない。本書はノンフィクション文学の困難さを典型的に表現しているように思われた。

東電OL殺人事件 (新潮文庫)

東電OL殺人事件 (新潮文庫)

評価:★★☆☆☆